綺麗な夢のその果てで


「ほら」
「おおきに、なつき」

 間接照明が柔らかな光を落とし、淡黄色のおぼろな光の中、二人の陰がゆらりと揺れる。
 静かに注がれるとくとく、という侘びた味わい深い音に静留が嬉しそうに目を細め、お猪口(ちょこ)をほんの少し持ち上げて首を傾げ、なつきに謝意を表した。そんな物腰のやわらかな仕種に、なつきは見慣れているはずなのになんとはなしに視線を奪われ、静留をしげしげと眺めやった。
 不意に視線に気付いた静留が、お猪口から唇を離しなつきを見返す。
「なんやの?」
「――いや、」
 なつきは無造作に徳利をテーブルの適当な場所に置き、黒髪を梳いてその手で頬杖をつく。
 そのまましばし静留の顔を眺めていたが。
 徐に視線を外し室内に視線を流す。綺麗に整頓された部屋。落ち着いた調度品、決して主張の激しくない――でも部屋の主の趣味の良さを感じさせる淡い色合いのカーテン。
「いや、お前はやはり女らしいなと思ってな」
 思った事をぽつりと呟く。
 突然の思い掛けない言葉に静留はふふと微笑むと、大吟醸を口に含む。
「いややわ。ほんまになんですの?」
 浅くたたえた笑みにもまた花がある。
 ――確かに、美人だよな、静留は。
 生徒会長という立場からだけでなく、元来人を引き付ける魅力があるのだろうと思う。学年や男女の区別なく皆に慕われているのも頷ける。――特に下級生の女生徒からの人気は滅法高い。……正直ああも侍らせているのはどうかとも思うが。
 否、例の蝕の祭以来、あからさまに侍らせることはなくなったのだが、それでも慕って静留に近付こうとしている女生徒は未だ多い。
 昼休み、放課後……敢えて見ようと思わなくとも、そういった現場を見かける事は多い。卒業式を控えている所為だろうか。彼女との別れを惜しむ者は多い。しかしそういった現場を思いがけず見掛けてしまうと、見て見ぬ振りをして回れ右をしてその場から立ち去らずにはいられなかった。――どうしても。名も顔も知らぬ女生徒たちに向ける静留の笑顔など見ても面白いものでもないしな。
 ――何故そんな言い訳がましい考えをしてしまうのか、なつき本人にその自覚はないのだが。
 今日だけでも三人。昨日は二人。
「………当たり前か」
「もう、ほんまになんやの?」
 テーブルに突っ伏し脈絡のない事を呟くなつきに、静留がいよいよ眉をしかめる。
「美人で頭が良くて女らしくて……、おまけにスタイルも抜群だ。お前がもてるのも頷けるな、と思っただけだ」
 他意なくさらっと呟かれた言葉に、それまで白磁のように白かった静留の頬に赤味がさす。
「も、もういややわ、なつきったら。何言い出すかと思たら……」
 照れ隠しなのか、お猪口に残った八海山を一気に飲み干す。
「なんだ、照れたのか? 美人だのなんだのと、そのくらい言われ慣れているだろう。何を今さら――」
 思いのほか戸惑った仕種になつきが驚いて顔を上げる。
 やはりなつきは自ら発した言葉の意味を解していない。
「ほんまにいけずなお人やね。――ほんま……」
 静留は続きの言葉を紡ぐ代わりに、溜め息をほうっと吐きだした。
 なつきは何か失言をしたかと、きょとんとした表情で顔を覗き込んでくる。
「いややわ」
 ――そんな表情(かお)されたら、もう何も言われへんやないの。
 口に出さずに飲み込む。
 自分の想いは嫌という程知らされているというのに、この無防備で無垢で無神経な所ときたらどうだろう。果たして分からないものだろうか、想い人に美人だの何だのと言われて平静でいられるものか。
「な、何が嫌なんだ。わたしは誉めたんだぞ。何をそんなに拗ねているんだ」
「拗ねとるんやおへん。なつきが……」
「わたしが何だ。文句を言うならもうお酌してやらんぞ」
 ふい、と顔を背け、唇をとがらせる。――ああ、可愛いらし唇やなあ……、こんな時でさえそんな事を考えてしまう自分がおかしい。
 その分――
 胸が痛む。
 もう二度と触れてはならない唇。
 だからこそ、二度の口付けが胸に痛い。
 思い出として胸に仕舞い込むしか出来ないその事実が胸を締め付ける。締め付けるからこそ、全部吐きだしてしまいたくなる。
 ――でも、
 胸の裡(うち)を吐きだしても曝しても――吐きだして曝して全部なんもかんもぐちゃぐちゃに毀して――
 もう一度曝してしまったら――
 もう二度とは戻れなくなってしまう。
 一度吐きだしたら止められなくなってしまう。
 あの時も本当は分かっていた。なつきを苦しめるだけだと。分かっていたのに、自分を止められなかった。なつきが欲しくて欲しくて、でも一度でも触れたら毀してしまう。だから――想いを闘いへ無理やりすげ替えた。なつきを苦しめる一番地を、HiMEを、ひとつずつ毀していくしか想いのやり場が無かった。
 何も恐くはなかった。罪の意識さえそんなもの枷にならなかった。
 なつきは手に入らない。あの娘(こ)の心は、邪な恋を受け入れるには綺麗でやわ過ぎる。
 でも、だからこそ、あの娘の心をうちの事でいっぱいにしたかった。
 せめて……せめて――――
 でも…………、
 やっぱりなつきを傷つけてしまった――あの娘の心を。
 何も言わないが、傷ついて傷ついて、それでも、精一杯受け入れようとしてくれた。傷付いても、真直ぐに、逃げないで――うちを抱き止めてくれた。嬉しかった。無理強いして手に入れるしか出来ないと思っていた人の腕に抱かれて、ただ……嬉しかったんよ。
 想いなんて通じんでもええ。
 心からそう思った。
 本当に。
 だから、
 純粋で優しくて脆いこの娘(こ)を二度と苦しめたらあかん。
 絶対に――あかんのや。

「………静留?」
 深い翠の瞳が目の前にあった。
「本当に怒ったのか?」
 なつきが静留の肩に触れ、その感触に静留が溜まらず目を伏せる。胆に力を込め、声が震えぬように懸命に口を開く。
「うちがなつきに怒った事あります?」
 ゆるりと瞳を上げ、なつきの瞳を覗き込む。――大丈夫。忍ぶ恋は慣れているから。
 絶対に曝し出したらあかん。
 どんなにしんどくても、そんな素振りもう二度と見せたらあかん。
『いや、お前はやはり女らしいなと思ってな』
 ――いややわ。ほんまになんですの?
 色なんか見せずにそうなんでもないように答えて。
 やがて、なつきもまた静留の瞳を覗き込む。
 紅の瞳が揺れていた。――否、もうそこにあるのは穏やかな笑顔で。
 いつもの穏やかな藤乃静留で。
「――いや、……ないな」
「そうですやろ」
 間接照明が柔らかな光を落とす、淡黄色のおぼろな光の中では、静留は酷く綺麗で――果敢なく見えたから。

「静留」
「何どす?」
「今度はお前がわたしにお酌しろ」
 ぐい、と先程まで静留が口をつけていたお猪口をなつきは差し出す。元々お猪口はひとつしか用意していない。
「え?」
 案の定静留はきょとんとした顔をしている。
「なつき、呑まないんやなかったん? 鴇羽さんたちと飲んだ時にえらい大変な思いした言うて……?」
「うるさい。禁酒はもう終わりだ。つべこべ言わずにさっさと注げ!」
「そやかて」
「なんだ、わたしに酌をするのが嫌なのか!」
「い、嫌やないけど……」
 然も仕方なしにといった体で静留が徳利を手に取る。
「ほんまにええの?」
「クドイ! わたしがお前の酌で飲みたいと言っているんだ。注げ!」
「……なつ、」
 更に強くお猪口を押し付けると、静留は驚きながらも少し頬を染めなつきの目を覗き込んだ。
「うちの……お酌がええの?」
「そうだ!」
 思わず、言い難い事を何度も言わせるなと怒鳴りたくなったが、ぐっと堪える。
「…………」
 静留は徳利に両手を添えて、なつきの持つお猪口に近付ける。ちらりとなつきを覗き見ると、飲む前からどうも目が座っているようで。おまけに顔まで赤い。――大丈夫やろか。
 とくとく、と大吟醸を注ぐ。
「静留。――飲むぞ」
「……どうぞ」
「よし!」
 言うなりなつきは一気にお猪口を空けた。そして飲み干したお猪口をその反動で思いきりテーブルに打ち付けるように戻す。
「ちょ、ちょおなつき! あんた日本酒なんて呑み慣れてへんのに無茶して!」
「うるさい! お前に呑めてわたしに呑めない訳はないだろう! わたしだって呑みたくなりゅときくりゃいありゅんだ」
「なつき……」
 既に呂律が怪しくなっている。相変わらず酒には弱い。――ああ、まずい、ちょっとやり過ぎたか。
「しずる」
 舌怠い口調で名を呼ぶ。
「もう何どす、なつき」
 然も呆れ半分心配半分でといった表情で静留が顔を覗き込んで来る。
 ああ、わたしは何をやっているんだ。否、何がしたいんだ。
 そう思うと、情けなくて思わず静留の肩に顔を押し付けてしまった。向かい合うのではなくて、テーブルの角で隣り合って座っていたから、肩というか胸の上辺りというか丁度その辺りに顔を押し付ける。
「しずる。わたしは――」
 言って、顔色を窺おうとして行き場を失った静留の左手を見つけ、それを握る。そのまま勢いづけて続けた。
「わたしは、お前がうらやましい」
 すると一瞬息を飲んだ静留が、どこか困った様に言った。
「い、いややわ。なつき、やっぱりもう酔うてはるん?」
「お前に……憧れていた」
「…………な」
「お前の……女らしい仕種や、面倒見のいい所とか、優しい所とか……その……わたしは、す、少し、憧れていたんだ」
 既に一合半程徳利を空けていたが、それで顔色ひとつ変える事なかった静留の頬が染まる。
「お前はわたしにないものを持っていて……皆にも好かれていて……、わたしとはまるで別世界にいるような存在だったのに……。それなのにわたしなんかに話し掛けてくれて、最初の頃など、その……お前の事を邪険にしてしまったし。それなのに、お前は……わたしに……」
 握った静留の腕から力が抜けるのが分かった。
「そんなに、わたしの……どこがいいんだ?」
「なつき……」
 呼ばれて顔を上げる。
「どこ言うても、どことは言われへんよ。それに、もうええんよ。そないに無理せんといておくれやす。なつきがうちの想いに戸惑う気持ちも分かるさかい、……な? せやから、無理せんといてな」
 静留は握られた手を一度握り返すと、そっとなつきに押し戻す。そして、転がったお猪口を元に戻し、やんわりと言う。
「うちはなつきの事苦しめたないんよ。ほんまなら、なつきには伝えるつもりなんてなかったんやし。お陰であんたの事、えらい傷つけてしもて、うち……眠ってはるあんたにあないな事して、後悔しとるんよ」
 なつきの肩が震える。――あないな事。
 意識を失っていて記憶などないが、静留と雪之とのやり取りでは――……。
「あ、いや……。あ、あの時は狼狽えてしまって、す、済まなかったな」
「謝って済むことやないけど…………、堪忍な……なつき」
「あ、いや……」
 いきなり顔の温度が上昇していくのが分かった。あないな事ってつまりそれは……。静留とわたしは……。
 心臓が早鐘のように打鳴らされる。
 静留の肩を掴んだまま、視線を彷徨わせる。落とした視線の先に、広く空いた静留の胸元があって……。
 思わず息を飲む。
「し、静留!」
 彷徨った挙げ句に視線を上げると、そこに見慣れた静留の顔がある――がしかし。その表情はひどく、切なくて。
「堪忍な……なつき」
 絞り出した声が、ひどく悲しくて。
「しず……」
「謝って済む事やないけど、ほんま」
 悲しくて。
 胸に、刺さる。
「堪忍……」
「謝るな!」
「!」
「わたしだって、お前を悲しませたくないんだ。お前がわたしを苦しめたくないように、わたしだってお前に辛い思いはさせたくないんだ! わたしはお前に辛い思いをさせる為に一緒にいるんじゃない! そんな事の為に、お前と闘ったんじゃない!」
「なつき……」
 更に切なく細められる瞳。
 わたしは――
「静留……。わたしはあの時、初めてお前の気持ちを知って、……でもあの時はまだ恋だとか好きだとかそういう物が分からなかった。何故あの時お前が雪之と闘ったのか、そうまでして何故わたしを好きだと言うのか分からなかったんだ。でも……!
 奈緒に捕らえれてお前に助けられたあの時、分かったんだ。
 お前や舞衣や命や、皆と出会ってわたしは変わった。周りの人達と関わり合う事で、誰かに必要とされる事がこんなにも嬉しい事だと初めて知る事が出来たんだ。わたしは……あの時まで、そんな簡単な事にも気付けないでいたんだ。誰かと関わり合うなんて面倒な事だと勝手に思い込んで拒絶して。
 お前がずっと側にいてくれたのに……な」
「…………なつき」
 静留の肩が震える。
 なつきは両手で静留の肩を掴みこちらに向き直らせると、その手を頬に添え顔を上げさせて真っ直ぐに静留を見つめた。そして精一杯に微笑む。
「今なら分かるんだ。人を想う気持ちが。大切だと想ったり、想われたり。お前が……ずっと側にいてくれたから。お前がわたしを必要としてくれたから……、その気持ちが痛い程……分かったから」
 そう言うとなつきは静留を引き寄せ、冷えた身体を抱いた。
 酷く、静留の肩が小さく思えた。
「だから、謝らないでくれ。それがお前のわたしへの想いなら、それを否定しないでくれ」
「なつき……。うちの事、許してくらはるの?」
「ああ」
「うち、何もあんたの身体が欲しかったんと違います。せやけど……」
「いいんだ、静留。それに……なんというか、そうまでしてわたしの事を想っていてくれたなんて、女冥利に尽きる……かもな」
 なつきの照れた笑いに静留の頬が緩む。
「何言うてはるの。お人よし過ぎますえ」
「それでもいいさ。お前とこうしてまた一緒にいられるんだ。減るもんでもないしな」
「そういう問題と違うんやないの?」
 そう言って静留は埋めていた顔を上げる。なつきは苦笑して、ま、いいじゃないかと静留の肩をぽんと叩いた。
 余りの後腐れのなさに静留は溜め息をついて、ぽそりと呟く。
「はあ。なんや、そないな事なら、最後までしてしまうんのどした」
「――はあ!?」
 なつきは静留の肩を掴んで彼女を引きはがすと、顔を真っ赤にして慌てふためいて言う。
「な、な、な、な、な、何を……!」
「あー、勿体無い事してしまいましたわ」
「し、静留。そ、そ、そ、そ」
「ざーんねん」
「それならば…………!?」
 静留はいたずらっぽっく優雅に微笑むと、なつきの髪を払うようにして両腕を彼女の首へ回し、耳元で囁いた。――しっかりと、なつきの耳に吐息が掛かるようにして。
「でも、今からでも遅うないですやろ? ――なあ、なつき……」
「ひぃ!」
 吐息が耳に掛かった瞬間、背筋を妙な感覚が這い上がる。そのままこちらに体重を掛けられ、いともあっさり押し倒される。身体に思うように力が入らない。
 ……しまった。日本酒なんか飲むんじゃなかった!
「し、静留! こ、こういう事は、その……なんだ。時間を掛けて……だな……!」
 顔を真っ赤にしてなんとか回避する策を考える。――が、何も思い浮かばず慌てふためくしかなった。
 その時。
 胸の上から、忍び笑いが聞こえてくる。
「い、いややわ、なつき。本気にせんといておくれやす」
「し、静留!?」
 ふっと体重の重みがなくなる。
「あ~おかし。舌の根も渇かんうちにする訳あらしませんやろ。それとも、ほんまにしても良かったんどすか?」
「そ、そんな訳あるか! ったく。からかうんじゃない。お前が言うと冗談に聞こえないんだ」
 なつきはなんとか腕に力を込め、起き上がり、静留を睨んだ。
「そうどすか?」
「そうだ! ……まったく」
 沸き上がった怒りと焦りと羞恥心を抑えて、溜め息をついて気持ちをリセットする。改めて、テーブルの前に座り直し、居住まいを正して、咳払いをひとつ。
「ま、何にせよ、お前はそうやって笑っていてくれた方がわたしも嬉しいがな。二度と、お前にあんな顔はさせたくはないんだ」
「あんな顔て……」
 少しだけ顔を赤らめた静留が問う。
 なつきはにやりと笑って言った。
「闘っていた時の形相はまるで般若の面のようだったぞ」
「な!」
 言われて静留はぷい、とそっぽを向く。
「もう、酷いお人やね」
「はは。まあとにかく、精々お前の泣き顔を見ないで済むように頑張るさ」
 なつきはそう言うとテーブルの上にあった銀杏の乾煎りを口に放り込んだ。静留が顔を赤らめたのにも気付きもしないで。

 ――ほんま、いけずなお人やね。


fin.





あとがき

★い、色々失敗……! でもUPしちゃう(滅)

★うーんとうーんと、なつきと静留の主観が入り交じっちゃって失敗です。もっと上手く加減出来たら良かったんですが、技術がおっつきませんでした(死)
★このSSで何を書きたかったというと、酒に酔ったなつきの背中にこっそりとすがる乙女な静留さんが………って、出てきてないじゃん、そんなシーン!
★あれ~? 予定ではそういう方向だったのに、いつ変わったんだよ。多分……思いのほかなつきさんが男らしく頑張っちゃった所為でしょう(笑)酔いつぶれてくれませんでした(笑)
★まあ、いいか。(おい)


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Saku Takano ::: Since September 2003