願わくば。


 ――色々な事があった。

 そうは思うのに、それぞれの意味を考えると、理由とか意義とかそんなものはどうでも良く思えた。そんな感慨にひたっている場合ではない、と自分を戒める気持ちもあるのに、彼女が目の前にいるだけで、止めどなく色々な事が思い出された。
 ただ、そうかといって何か具体的な思い出だとかを思い出していたかというとそうではない。ただ、ああ、色々な事があったんだよな、とそう何となく思えるだけなのだ。彼女が目の前にいるだけで。
 彼女が目の前にいるだけで。
 それが、――彼女が自分の目の前にいる事がこんなにも大切な事だったなんて、今迄、つい先程まで気付かなかったんだから、自分はなんて馬鹿なんだろうと思った。
 久々に感じるエレメントの漲るエネルギーの感覚が、不思議と心地よかった。久し振りに味わう感覚ではあったが、戸惑いはない。つい二日程前に高次物質化能力が戻ったばかりではあったが、あの時はただ、熱いと思っていた感覚が、今は温かいと思えた。実際、HiMEの能力に熱エネルギーはない。エレメントを発生させる際に光りこそすれ、熱は発生しない。発砲しても同じ事だ。通常の銃器類は強かに熱を発するが、エレメントはその弾丸を前進させるのに火薬を使用する訳ではないから、本来火薬を詰める筈の薬莢は弾丸を飛ばすエネルギーを発生させた後、排出されれば跡形も残らない。エネルギーそのものが薬莢の形を為しているだけで、エネルギーを発散させてしまえば、霧散する。
 だから、熱だとか温度を感じるのはおかしいのだ。でも、自分は確かに温かさを感じている。
 両手が温かい。
 まるでこの手にデュランを抱いているようだ、と思った。
 動物に触れる熱。あの温もり。
 そう思った途端、ひとつ合点がいく事があった。高次物質化能力が、想い人を触媒にして発生する理由が。誰かを想うだけで、こんなにも温かいと感じる事が出来るのだから。
 この熱は、あいつを想う熱だ。

 紅いエレメントに巻き取られる。あいつのエレメントだ。熱は感じないが、その太刀筋には狂気も恨みも感じられない。だから恐くはなかった。
 いつも誰かと対峙している瞬間は、あんなにも身が切れるような恐怖と緊張感に身も心も擦り減らしていたというのに、これが命を張った闘いなのだろうか、と瞬時にそんな事を思った。恐くはなかった。
 教会の尖塔にぶらさがった鐘が落ちて来た瞬間は身の竦む思いがしたが、除けられないと悟った時、次の一手を考えながら、心が決まった。最後の闘いに挑む事を思った時、きっちりと覚悟を決めたと思い込んでいたが、それは闘いに挑むという事実に対してであって、その思いに迷いこそなかったものの、心のどこかで、どうにか彼女と闘わないで済む方法はないか、と小さな逃げ道を期待しないではいられなかった。例え、彼女が刃を鞘に収めたとしても、物事が丸く収まる事は決してないのだと知りながらも、どこかでそういった期待をしてしまうのが、自分の甘さなのだ。
 彼女を傷付ける事に抵抗があった。彼女の気持ちであろうと、肉体であろうと。
 エレメントを撃ち込めば赤い血が流れる事を身を以て知っていたし、身近にいた人間に対して直接手を下さずとも自分の所為で大きな怪我を負わせてしまうという重圧も嫌という程知っていた。結城奈緒の顔の傷は浅くはない。一生直らないかも知れない。
 それを承知で彼女と対決する事を選んだ。
 でも、抵抗があった。
 でも、やるしかなかった。
 どうしても彼女が傷付かずに済む方法がないのなら、彼女を傷付けるのは自分をおいて他にいない。
 否、そうではない。単に彼女が無残に闘いに破れる姿など想像出来なかっただけだ。だって自分はいつだって完璧な彼女しか知らなかったんだから。
 初めて出会った頃から彼女は完璧だった。完璧な容姿、完璧な人望、完璧な成績、完璧な――優しさ。生徒会長という任を受けてからは、それが周囲の人間へ対してでさえも一時も裏切る事なく、完璧な人であり続けた。
 でも、実際の彼女は完璧だったのではなく、完璧な人を演じていただけなのだ。時折ふたりきりの時に見せる疲れた表情も、少し弱い彼女も、自分は――自分だけは確かに知っていたのに、知らない振りをしていた。彼女なら大丈夫、そんな風に思っていた。きっと、自分しか知らなかったのに。
 自分が馬鹿みたいに神崎や取り巻き達に子供染みた嫉妬を覚えたとしても、知らない振りなんかせずに、もっとちゃんと受け止めてやれば良かった。
 優しく労って、抱き留めて。
 それが、彼女の望む愛情とは違うものだったとしても、何故、戯れに彼女が腕を回して来た時に、その腕を振りほどいてしまったのだろう。きっと酷く傷付けた。
 わたしは馬鹿だから、そんな事にも気付かなかった。

 もう恐くはない。
 きっと、HiMEの運命や媛星の災厄などなかったら、穏やかに過ごせた日々があっただろう。麗らかで少しくらい困難があったとしても、乗り越えて行けるであろう穏やかな日常が。でもそれはとても残酷な世界だ。彼女は想いを秘めたまま、とても悲しい世界を生きて行くのだ。
 だから。
 そんなもの、わたしが壊してやる。
 わたしがこの手で、壊さねばならないのだ。

 静留。

 彼女のエレメントの束縛が解かれた時、目の前に彼女がいた。この数日間、とてもとても遠くにいた彼女が。
 だから、彼女が近くにいてくれるだけで、嬉しかった。
 わたしの目に映る彼女は出会ったばかりの頃の彼女を彷彿とさせた。こちらとの距離を伺いつつ、踏み込もうとして敢えて少し力を強く込めてこちらを見つめる彼女に。あの頃のわたしはそんな好意に対してどんな風に接していいかも分からずに、ただただ突っぱねていたが、今は突っぱねようだなんて少しも思わないし、第一そんな風に思えない。
 驚く程自然に彼女を受け入れていた。
 こちらとの距離を伺いつつ、踏み込もうとして敢えて少し力を強く込めてこちらを見つめる彼女。それはとても寂しそうな表情で。
 そんなにうちが嫌い?
 お前はそう言った。
 馬鹿。
 本当に馬鹿だ。
 お前も、わたしも。
 もどかしかった。どうして気持ちは伝わらないのだろう。どんなに言葉を重ねても、この想いを正確に伝える事なんて出来やしない。例えば指を重ねて想いが伝わるなら、この手を重ねよう。抱き締めて想いが伝わるなら、強く抱き締めよう。
 もどかしくてもどかして、ただひたすらにもどかしかった。
 そんな風に怯えなくていい。わたしはここにいる。
 わたしは――、

 その瞬間だけは、少し、頭が真っ白になった。一瞬。でも、酷く長い時間のようにも思えたし、短いようにも感じていた。とにかくその瞬間だけはそれ程冷静ではなかったのは確かだ。
 何を言いたいかも分かっていたし、自分で何をしているかも分かってはいたが、誰かとこんな事をするのは初めてだったのだし、その感覚に驚いていたのだ。
 温かい。
 ――これが静留の感触か、と思った。

 唇を離すと、見たこともない静留の顔があった。とてもこれが彼の生徒会長さまだとは思えない程驚いている彼女の顔が。きっとこんな顔、誰にも見せた事なんてないだろう。――わたしだって見た事がないんだから。
 間近で見た彼女が酷く懐かしかった。聞こえそうな程吐息が近く、それすら愛おしい。
 こんな風に向かい合うのは初めてだった。食事をする時だってテーブルを挟んで向かい合うものだし、近いといったって精々隣に並ぶぐらいの事で、もっと近いといえば、彼女がふざけて抱き付いて来た時ぐらいのもので、それはいつだって背中からだったのだから。
 静留。
 あんなにずっと近くにいたのに、本当は少し遠かった。
 これで、少しは近付けたのかな?
 ――もう、最期だけれど。
 もっと一緒にいたかった。もっと一緒にいたかった。もっと優しく出来れば良かった。お前の想いに気付けたら良かった。お前の想いに気付きたかった。
 願わくば。
 最期に彼女が少しでも辛い想いをしないでいられますように。



END





あとがき

★25話のお話でした。

★私は今、静なつの長編を書いてますけど、このシーンは絶対に組み込むと思います。ぶっちゃけ私はこの時のシーン、ひいてはなつきの心情を書く為に長編書いているようなものです。
★それなのに、先に短編として、この話をUPしちゃうのは良くないかも知れないですけど、長編に組み込まれて読み直した時に、「ああ、そうか」と思って頂ければ幸いです。どういった意味で「ああ、そうか」かは今はまだ言えませんが、とにかく、頑張って長編書き上げたいと思います。

★そりから。
★このシーンのテーマはなつきソングの「綺麗な夢のその果てに」です。
★実はずっとこの歌の「綺麗な夢」ってどういう意味よ? しかも壊したいって何でよ? と色々解釈に悩んでまして。でもすごくすごく大好きな歌で。いかにもなつきみたいに繊細で、それでいてすっごく大切なもの、大切な人の為に前を向いている歌じゃないですか。そういう所も大好きな所以でして。
★今回、自分なりにかみ砕けて作中に組み込めたので、良かったです。皆さまの解釈はどうでしょう?


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Saku Takano ::: Since September 2003