迷いの森 |
「せやからね、ここが間違うてはるから、こっちの答えも……」 耳元に落とされる声が、余りに近すぎて胸に痛い。柔らかな声が胸にさざ波を立てる。 「……聞いてはる?」 トーンの落ちた伺うような声にはっとして、顔を上げた。 「あ、はい、聞いています。ごめんなさい。この問いですよね」 努めて淡泊にそう言い、改めてテキストに視線を落とすが、さっぱり答えが分からない。答えどころか問題のどの段階で躓いたのかすら、分からなかった。 どうしよう……。そう思えば思う程頭が混乱して問題が頭に入って来ない。このままではいけない、とは思うが、やはりどうしても集中出来ない。 そう――。ようやく晴れてシズルお姉さまのお部屋係となる事が出来、お姉さまのお部屋に呼ばれてお姉さまの机で勉強を見て頂いて、直ぐ隣にはシズルお姉さま御本人がいらっしゃるというのに。でもだからこそ、テキストに視線を向けても、意識の全ては勝手にシズルお姉さまへと向いてしまい、手も思考も止まってしまうのだ。 肩に落ちたお姉さまの髪も、背に回されたお姉さまの右手も、左腕に添えられたお姉さまの左手も、その全てに歓喜の情が沸き上がる。 ふと、ナツキの止まった手を見て、シズルが溜め息をついた。 「ナツキ……どないしたん?」 その緊張を孕んだ声音に、ナツキは冷水を浴びせられたような気になった。 「ご、ごめんなさい、シズルお姉さま。折角のお休みにわたしなんかの勉強を見て頂いて……それなのに……」 「あんたの勉強見るんはかまへんよ。うちもな、あんたと一緒におれるんは嬉しおす」 さらりと言って微笑まれ、心臓が跳ね上がる。 ――これは、まやかしなのに。 「ただな、集中出来へんみたいやから、どうかしはったんかなと思うてな。具合でも悪いん?」 白く細い指が伸びて、優しげな仕種で前髪を寄せる。あっと思った時には、シズルお姉さまの額が自分の額に触れていた。 自分でも顔が沸騰するのが分かった。ぎゅ、と両手を握り込む。 「ん――、熱はないみたいやね」 ゆっくりと額が離れてゆく。でも未だ至近距離にシズルお姉さまの容顔があって、上半身ごと身体を近付けたままそのままどこか企むように、それでもふうわりと花開くように微笑まれる。 「これは、熱、言うより、なんや別の……」 やがてお姉さまの手が頬に触れたかと思うと、するりと指が滑り落ちて来て親指が唇に触れた。あまりの事に動くことも出来ずにナツキはそして息を止めた。 お姉さまの指が唇をなぞる。 「ナツキはほんま、綺麗な顔してはるわ」 ――可愛らしな。 呟かれた直後、ふっと、身体が離れた。 「今日は勉強、やめにしときます?」 また穏やかな微笑み。 何かを期待して緊張していたのは自分だけだと知って、頭に血が上る。 「か、からかわないで下さい!」 こんな風にからかわれるだけだなんて。 思わず唇を噛んだ。 「お姉さまは……!」 ん、と小首を傾げる仕種にも胸がざわつく。 「誰にでも――こんな風に――」 数日前、図書館で見かけた姿が瞼にちらつく。 シズルお姉さまと、コーラルの生徒。 楽しげに戯れて、シズルお姉さまはその生徒の頬にキスをしていた。いや、その真似事だけのようにも見えた。触れた所を見た訳ではない。――けれど、 「誰でも――」 昨夜は、浴室でハルカお姉さまの胸に触れたりなんかして。 ――幻滅した。 憧れていたシズルお姉さまは、思い描いていたような聖女ではなくて、もっと俗っぽくていやらしくて、誰にでも――――。 「わたしじゃなくても、いいくせに!」 それなのに、ただ隣にいるだけでこんなにも胸が震えるのは。 「ナツ……」 「部屋に戻ります!」 言いかけた言葉を遮り、机の上に広げたテキスト類をかき集める。 そしてなるべく抑揚のない声で言い捨てる。 「貴重なお休みの日に済みませんでした」 テキスト類と筆記用具を抱えて目を見ずに立ち上がりドアへと駆ける。ドアを開け飛び出すと、振り切るようにドアを強く締めた。――未練を断ち切る為に。 ★ 「あ゛~~~~~~~~~~~!」「馬鹿ね、あんた。なんで逃げたりなんかしたのよ」 ナツキが机に突っ伏すと、頭の上からルームメイトの呆れた声が降って来た。 「うるさい舞衣! お前にわたしの気持ちが分かるか!」 「単なる焼きもちでしょ。だからってどなりつけて部屋を飛び出すなんて……。まったくもう!」 「うるさい!」 もう一度吠えると、再び机に突っ伏して右の頬を木目に押し付けた。 「あ゛~~~~~~~~~~~!」 「……馬鹿」 もう一度口答えする気にもなれず、舞衣の声を無視して目を瞑る。するとよく分からない感情が沸き上がってはそれを打ち消すように別の感情が打ち寄せて来て、とにかくもう何が何だか自分でも分からなかった。 どうしたいとか、どうされたいとか、今後どうしたらいいのかとか、感情も理性も整理がつきそうになかった。 せめてあんな風に怒鳴り散らして部屋を飛び出さなければ良かった。そうすれば少なくとも次に会う時になんでもなかったかのように振る舞う事も出来たのに。 「……どんな顔して会えばいいんだ……」 自分の気持ちすら分からないのに、まともな会話なんて出来そうにない。ただの形式張った世間話ならどうにかこなせるとしても。 「あんたさあ、いい加減はっきりしたら? 最初はシズルさんの方が悪いのかな、とも思ってたけどさ」 「はっきりとは何の事だ」 「何の事かじゃないっつの。好きなら好きって言いなさいよ。中途半端が一番悪いわよ」 「はあ……。だから何の事だ」 ナツキは机に頬を貼り付かせたまま、再び溜め息を吐き出す。ルームメイトの言葉が右から左へと抜けていく。上の空で口を動かす。 「好きなんでしょ?」 「だから、何をだ」 「シズルさんの事が」 「だからなんでそこでシズルお姉さまの名前が――――、」 “が”の形で口が止まる。 ――ん? “好き”? 勢い良く起き上がると、ナツキは器用に椅子の上で後退り、身構えた。 「お前、好きって何の事だ!」 「や、そのまんまの意味だけど」 「おおおおおお姉さまに対して好きも嫌いもあるか! そ、尊敬はしてる所はしているが、す、好きとか嫌いとかお前そんな……」 「何赤くなってんのよ」 「うるさい!」 舞衣は呆れたように溜め息をつくと、重力に身を任せて億劫そうに自分のベッドに腰を下ろす。勢いにベッドがたわんだ。 ナツキはルームメイトの突然の問いに言葉の真意を量りかねて口を開閉させる。好きという語句に含まれる意味に訳も分からず戸惑いを感じている自分がいて、何をそんなに過剰反応しているのか、それ程過敏になる必要はないと分かっているのに、顔が紅潮していくのを止められなかった。 好き? どういう意味だ。 「じゃあさ、聞き方変えるけど、シズルさんの事どう思う?」 「どうって何がだ、どうって!」 「そんけーしてんの?」 「し、してる部分はしてる」 「してない部分は?」 「な……」 ナツキは言葉に詰まると、何か言いかけたまま徐々に眉を顰めていく。次第に口元が固く引き締まり、不機嫌そうな顔になる。 「あ、あまりどうかと思う行動を取られる事もあるしな。正直……よく分からん」 「分からないって?」 「だ、だからお前だって知ってるだろう。シズルお姉さまはその……色々な下級生と……その、し、親しくされてるし、そ、そういう事は、私には……分からん!」 「じゃあ、ナツキはシズルさんのそういう部分が嫌いなんだ?」 「嫌いとかそういうんじゃないだろ。それはシズルお姉さまの個人的な事だし、わたしが口出す事じゃない。それにシズルお姉さまだって、一人の人間なんだ。色々……あるんだ」 「ふう~ん、色々ねえ。あんたもされてんの? 色々?」 「ぬう?」 ガタン、と椅子が鳴った。ナツキが腰を浮かせて口をぱくぱくさせている。 「だから、いーろーいーろー」 「さ、――――れたりも、し、しなくは――――ないが、別になんて事はない。大した事はされてないぞ! 別に普通だ!」 舞衣はルームメイトが赤ら顔で然もなんでもないと強調するように堂々と大見得を切る様を横目で見てぽりぽりと頭を掻くと、ベッドの上で胡座をかいた。 「あんたは口出す事じゃないなんて言ったけどさ、それって見て見ぬ振りしてるって事でしょ。分かんない振りしてさ。それってあの時のままじゃない。シズルさんの事一方的に憧れの目で見て、いざ現実を見たら、幻滅する代わりに知らんぷり? それってひどくない?」 ナツキは赤ら顔を豹変させ、眉間に皴を寄せる。単純というか素直というか。舞衣は枕を元に戻すとベッドに座り直し、正面からナツキを見据えた。 ナツキも又、椅子にきちんと座り直し、舞衣の方を向く。律義な事だ。 「どういう事だ、舞衣」 「あん時あんたさ、何て言った? あなたの事がもっと知りたいんです、って言ったんだよね」 「――ああ」 ――あの時、とは忘れもしない。 入学してしばらく経った頃、シズルお姉さまに憧れを抱いていたナツキは舞衣の助力を得て彼女を呼び出したはいいが、戯れにイタズラをされてしまい、幻滅した。あろう事か上級生の頬を叩き逃げ出したのだ。その後、何故か自分を巡ってどちらのお姉さまのお部屋係になるのかを賭け、シズルお姉さまとハルカお姉さまとが舞闘をする事態になったのだが、結果は見事シズルお姉さまが勝利し、その時にナツキは彼女に告げたのだ。あなたの事がもっと知りたいのだと。 それは偽りのない気持ちだった。 幻滅はした。確かに聖女然としていた彼女のイメージは瓦解し、もう顔も見たくないとさえ思った。けれどそれは彼女の一部に過ぎないし、又彼女の一部であるからこそ、それこそが彼女なのだとも思った。自分は彼女を語れる程何を知っている? オトメを彩るメディアに躍らされ、勝手に清らかな彼女のイメージを作り上げていただけで、本当は何も知りはしないのに。 でも知った事もあった。優しい面、強かな面、少しずつ彼女を知る度に、やはり憧れは一層強くなっていたのではないか。作り上げられたメディア越しの彼女よりも、ずっと強く。 そう思ったからこそ、今尚お部屋係として彼女の一番近くにいる。 色々迷惑を掛けて巻き込んでしまった事もあり、自分のけじめとして舞衣にだけは後にお姉さまとなったシズル・ヴィオーラその人に何と告げたのかを報告した。あまり上手く伝えられたかどうかは分からなかったが、それでも舞衣は辛抱強く聞いてくれた。 「あんたは色んなシズルさんを知った。でも、やっぱり自分の思い通りじゃないから知らない振りするの?」 ルームメイト、否、親友の言葉に苛立ちを覚えながらも辛抱強く言葉の意味を惟る。 知らない振り? そんな事はしていない。ただ、どうしていいか分からないだけだ。自分と彼女とは違う。考え方も外見も何もかも。自分にはあんな柔らかな物腰はどうしたって真似できないし、あの人当たりの良い所だって爪の垢を煎じて飲んだ所で自分に出来るとは思えない。 それに、あの社交的に過ぎる所も。 自分にはあんな風には出来ない。否、決して彼女と同じようになりたい訳ではない。曾ては彼女のようになりたいと憧れてはいたけれど、最早そんな風には思わない。 ただ――――、 「知らない振りなんかしてないだろ。ただ、気持ちが分からないだけだ」 「気持ち?」 以前は、側にいられる事が嬉しかった。 彼女が自分をお部屋係にと求め、自分もそれを望んだ。 それだけで良かった。 ――筈だった。 相変わらず彼女はパールの中で――――、否、歴代のオトメと引き比べても憧れのお姉さまで在り続けたし、その分お部屋係である自分は鼻が高かった。確かに驚くような悪ふざけをする事もあるし、品行方正なばかりではなく思わぬ所で羽目を外すこともあったが、やはり彼女の本質はただただ優しかった。お姉さまというのは単なる下級生の事であってもよく見ていらっしゃるし、厳しく接せられる事があれば、優しげに声をかける事もある。そういう部分を近い所で見て来たのだ。 それなのに。 お部屋係となってひと月。 あの人は何も変わってはいないのに、どこか取り残された気がした。 以前はただ側にいられるだけで良かったのに。 「……時々、無性に不安になるんだ。自分が必要とされているのか……。自分で……良かったのかと。あの人なら自分よりもっと相応しい人がいたんじゃないかって…………」 舞衣は瞬きひとつして黙って言葉に耳を傾けている。ナツキは小さく息を飲むと言葉を続けた。 「お前なら分かってると思うが……、わたしは器用な方じゃない……」 学力だの技術だのといった評価が悪くない事は結果を見れば明らかな事で多少の自負はあるが、試験など単なる試験に過ぎない。実地に立てばどれ程の結果が出せるものか。オトメの資質、という事になれば他に秀でた者などいくらでもいる。目の前のルームメイトだってその一人だ。飄々としているが、いざとなれば肝が据わっているし、詳しく聞いた事もないが、相応の家の出なのだろう。それこそ――本質的な資質から言えば関係のない事だが。 主の為に身を呈し主を守り、すべてを捧げる。時に外交の場に立ちもし、華やかな席に笑顔で列席し、この御時世の事、舞闘など演舞で舞う程度で、戦力など非戦の為の抑止力に過ぎない。お飾りの人形だ。そういったものが自分に務まるとも思えない。人形には人形としての役目があるのだ。お飾りならそれらしく華やかでなければなんの慰みにもならない。 あの人には――――自分は到底似合わない。そういった陰口もよく聞く。その通りだ。そんな事自分が一番よく知っている。 それに。 「あの人には随分と気に入った子も……いるようだし、な」 噂をよく聞くし、実際にこの目で見もした。幾人か“お気に入り”がいらっしゃるご様子だ。 「かといって、今更お部屋係を辞める訳にもいかないしな。これ以上あの方の面子を潰す訳にもいかないしな……。おい、聞いているのか、舞衣」 「……てるけどさ」 「あ?」 聞き取れずに聞き返すと、舞衣はどこか怒ったような態度で目を逸らし片方の膝を抱えた。 「不器用なのはあんただけじゃないでしょ」 「……そりゃ、世の中器用な人間ばかりじゃないが……」 「誰が世の中の話してんのよ。あんたと誰かさんの話でしょ」 「あ、ああ……」 ナツキは言葉の意味を量りかねて手持ちぶさたに口元に手をやった。それを見て舞衣が盛大に溜め息を吐き出した。 「あんたがそんな態度でいる限り、向こうだってどうにも出来ないんじゃないの?」 「……どういう意味だ」 「あんたの悪いクセでしょ。勝手に色々考え込んで頭でっかちになっちゃっていっぱいいっぱいになっちゃうの。理由とか理屈とか考える前に、自分の気持ちに素直になりゃいいじゃない」 「素直にって……、別にわたしは何も――――」 「分からないんじゃなくて、分かろうとしないだけでしょ。自分の事も、シズルさんの事も」 「……お姉さまの……事を……?」 分かろうとしない? 知らん振り? 「わたしが…………」 自分の気持ちに……? ――ナツキはほんま、綺麗な顔してはるわ。 不意に、お姉さまの言葉を思い出す。 ――可愛らしな。 穏やかな微笑み。 ――お姉さまは……! 誰にでも――こんな風に―― その時、不意にドアを叩く音が聞こえた。 休日に誰なのだろうか。級友が茶の誘いにでも来たか。 はい、と返事して舞衣が立ち上がる。 茶の誘いになど乗れるような心境ではなかったから、ドアに背を向け机に向きあった。察して舞衣も断りを入れる事だろう。 「え?」 ドアの軋む音に舞衣の驚いた声が重なった。 「シズルさん……?」 ★ 「ほんまはあんたの迷惑になるかと思たんやけど……」連れ出された場所は、寮から十分程歩いた所にある学園内の小さな林だった。生徒達の人通りがない訳ではなかったが、場所を選べば誰かに姿を見られる事もない。促されて共に木陰に腰を下ろすと、ただ腰を下ろすという動作に過ぎないのに、そんな小さな仕種一つにも華があった。自分とは大違いだ。 「先程は、失礼致しました。あんな風に、どなり散らして……」 「ええんよ。からかうつもりがなかった訳でもあらしませんしな。……堪忍」 「……いえ」 小さく微笑まれて、大きく顔を逸らす。それが余りにも露骨で自分でも嫌になる。――でも、そうするしか出来なかった。顔どころか耳までも赤くなるのが分かった。 麗らかな午後、そんな表現が似合うような穏やかな季候の空の下、酷く場違いな程に緊張している自分がいる。お姉さまだけが優雅に景色に馴染んでいるようだ。 互いに脚を折り、重心をどちらかへ寄せるように座る。お姉さまはこちら側へと体重をのせ、ナツキは外側へ、シズルお姉さまとは逆の方へと重心を寄せた。 やはり察しの良い子だ。 先程、シズルがナツキの部屋を尋ねた際、ノックをするタイミングを逸した事もあって二人の会話を聞いてしまった。小さく開いたドアからルームメイトの鴇羽舞衣に、今の話……と尋ねられたのを、何の事かとすっとぼけはしたが、よもや上級生に対し不器用とは――。本当によく人を見ている、彼女――鴇羽舞衣は。 今迄不器用などと人に指摘された事などなかった。どちらかと言えばなんでも器用にこなすように見られがちで、実際その通りだとも言える。 ただ昔から本当に欲しいもの程手放してしまう癖があった。臆病なのだ。いつかは手放してしまわなければならないものならば、最初から欲しがったりしない方が、心の傷だって浅いままでいられる。そう思える事が器用なのか、不器用なのか。 果たしてあのコーラルの子は不器用と表した。 「ええ風やね」 「……はい」 「ガルデローベには慣れました?」 「ええ」 「そうは言うても特殊な授業の方が多いですやろ、今の時期が一番しんどいやない?」 「ええ、まあ」 「お部屋係はどうどす?」 「――――」 ナツキはなんと返答して良いものか逡巡し、息を飲んだ。答えを探しながら、更に俯く。 「別に。どうという事もありません」 「……そう」 隣でシズルお姉さまの髪を掻き上げる気配がした。ナツキも顔に掛かる髪を除ける。 本当に欲しいものとは何なのだろう。 こうしていたって分かる筈もない。 あの日、彼女の言った言葉に嘘がなかったとしても――ナツキは器用に嘘のつける子ではない――彼女が自分のすべてを受け入れた訳では決してない。ただ知りたいと言われただけで、何か求められた訳ではない。 しかしあの時――、お部屋係にして欲しいと乞われて嬉しかったのだ。打算も何もなく真っ直ぐな瞳に見つめられ、ただ嬉しかった。 それなのに、今は。 何が変わってしまったのだろうか。 「今日はほんまに堪忍。ここまで付き合わせておいてなんやけど、もう行きよし」 手放す事でしか、自分を守れないなんて、酷く不器用だ。 「……どないしたん?」 立ち去らぬナツキを見て、様子を窺う。数秒待っても立ち去る気配がない。 「……ナツキ?」 名を呼んでも俯いたままで、ただじっと地面を見ている。 「……ナツ」 もう一度名前を呼びかけると、躊躇いがちに顔を上げた。けれどこちらを見ようとはしなかった。 ナツキは小さく息を吸うと、思いの外しっかりとした声で告げた。 「行きよし、って行きなさいという意味ですよね。それは、わたしは不要だと言うことでしょうか?」 「……そういう意味やおへん。うちにつき合う事はない、ゆうとるだけどす」 「ここにいても構わないという事でしょうか?」 もう一度ナツキの様子を伺うと、端正な横顔が目に映るだけで表情は全く伺えなかった。この数週間で彼女が頑固なのはよく分かった。こういう目をする時の彼女は、言葉を発さないだけで深く何かを考え込んでいる。 ――それが何なのかまでは分からないが。 「好きにし」 そう告げると、彼女らしい実に鹿爪な返答が返ってきた。 「はい」 けれど何も互いに物言わぬままなのは、少々落ち着かなかった。 物心ついた頃から他人に対して然程興味が持てない事が多く、かといって様々な事情により人と会う機会も多かった為、自然と場をやり過ごす方便を覚えたが、これ程いたたまれない事はなかった。否、いたたまれないとも違う。ちりちりとした焦燥感が拭えなかった。風は穏やかなのに、安堵する気持ちがまったくない。 時折彼女が――ナツキが、分からなくなる。こんな風に頑なに何かを訴えているのに、何一つ分からない。 「舞衣に、言われました」 「え?」 突然ナツキが口を開いたかと思うと訥々と喋り始めた。 「わたしは知らん振りをしているのだと。あなたにも、……自分にも。自分ではそんなつもりはなかったのです。そうなのでしょうか?」 ぶっきらぼうな口調にまるで怒りにも似た感情が沸き上がる。彼女の口調に怒りを感じているのではない。 ――この、現状にだ。 そんな風に問われても分かる筈もない。曖昧に微笑むと、息を吸って続ける。 「正直になれとも言われました。正直に……言います。わたしは今、とても緊張しています」 「……どうしてですのん?」 「…………、」 開きかけた口を閉じかける。何かを言おうとして、それが言葉にならない、といった風だった。 「……多分……、あなたといるから……」 それを聞いて思わず失笑が漏れそうになった。寸での所で堪え、瞬きひとつでそれを笑みに変える。――そんな芸ばかりが上手くなる。 悪い兆候だ。苛立ちが募っていく。 「シズルお姉さまといる時は、いつも緊張します。何故かは分かりませんが。それから……、」 「……それから?」 「…………いえ」 「言うて?」 いやらしく優しく問いかけると、目を泳がせて言葉を探す。 「それから、その。お噂は……本当なのでしょうか?」 「噂?」 思ってもみなかった単語に何事かと耳を傾ける。 「その……、お姉さまがわたしに飽きたと…………」 「な……?」 そんな噂があったのか。思わず目を丸くする。学生というものは好奇心が旺盛でいらぬ噂好きだ。……それでこの所ナツキの様子がおかしかったのか。少し優しげに微笑んだりするだけで過剰な拒否反応を見せた。 「そないな噂があったん? ほんまに?」 「――本当です。勿論……単なる噂とは分かっています。お部屋係とは飽きたとかそういうものではありません。でもわたしはあなたの口から聞きたい、です」 「……何て?」 「…………わたしは」 「…………」 「あなたのお側にいて、いいのかと」 「……あかんかったら、どないするん?」 どうしてこんな風に意地の悪い言い方しか出来ないものか。 まるであの時のようだ。拒否されると分かっていながら、無理やり唇を奪った。あの時は見事に頬を叩かれたが今は違う。唇を奪う気にもなれない。 ナツキが自分に興味を抱いている事は知っている。態度を見れば分かる。特に彼女は性格が真っ直ぐ過ぎて分かりやすいのだ。他の子にちょっかいを出せば、潔癖な彼女の事、抵抗感を見せるし、こちらもそれを承知で彼女の耳に入りやすい所でおふざけをしているのだから、質が悪い。 けれどこの子の場合は違うのだ。 遊んで済むような子ではない。 ――否、そもそもが倫理において「無理」なのだ、彼女にとっては。 興味を抱くと言ってもその程度なのだ。 だから、突き放さずにはおれない。否、だからとは何だ。「だから」ではなく。 ナツキを見遣る。 すると目を逸らしかけるが、思い止まってこちらを見返す。 「――わたしは、」 「あんたは好きにしたらええ。お部屋係をやめたいならそれでもええ。それがうちの答どす」 彼女の言葉を遮りそう告げると、青草の上を立ち上がる。一歩踏み出そうとして、腕を掴まれた。 それ以外の答を告げる気などなかった。無理に解こうとすると、思いの外力強い手で引き戻される。 「待て!」 振り向くと、あっと戸惑った表情を見せ、待って下さいと慌てて言い直した。 「答を聞いていません。それは答ではありません」 手が、震えていた。 「ほな、何? あんたの望む答を言わなあかんの?」 彼女の手が。 「そうではありません。わたしはあなたの気持ちが知りたいんです」 「……知っとるやろ。うちはあんたが思うとったような人間やない」 「わたしは!」 もう一度手を振り払おうとした瞬間、ナツキが大きな声を張り上げた。 「わたしは、」 「あんたが何を望もうと、うちにそれに応える義務はあらへんやろ」 ――あかん。 いつもならここで、堪忍な、とでも言えた筈だ。言って、終りにしてしまえた。 どうして言わせてくれないのだ。 どうして震える手を振り払えないのだ。 分からない。振りほどいてしまいたいのにそれが出来ない。あの時お部屋係にして下さいと言われた時、本当に嬉しかった。けれど噛み合わない。追えば逃げるし――――否、そんな事ではない。 そうではない。 そうではないのを認めるのが恐かった。 ただ、――――本当に好きになってしまうのが恐かった。自分は臆病だから。不器用で臆病なのだ。 「わたしは、わたしの中のあなたを信じています。だから信じさせて下さい!」 「……言うに事欠いて、おかしな事言わはるんやねえ、ナツキ」 今度こそくつくつと嗤笑がこぼれた。 「一言でいい。お姉さまの気持ちです。お部屋係でいろ、とでも構わない。わたしは噂などではなく、あなたの口から聞きたいんだ」 腕は震える代わりにその強さを増し、痛い程だった。 「わたしはあなたを信じる」 「あかん……」 「……え?」 どうしてこの子はこうなのだ。 真っ直ぐで頑固でちっとも上手に嘘が言えなくて。 こんな言葉を真っ向から受け止めたら、いつか自分が耐えられなくなる。自分の築き上げた嘘に。全部嫌なことも何もかも薄笑いで誤魔化して来た人生、全部。壊すか、壊されるか。この子の心を壊してしまうか、自分自身の偽善を壊されてしまうか。 「ナツキ、お姉さまごっこはもう終りにしましょ。あんたに似合いのお姉さまは他にいはるわ」 手放す事でしか、自分を守れないなんて、酷く不器用だ。 ――でも、 これが自分の生き方なのだ。 ナツキの手が力なく離れる。 ……これでいい。 「わたしじゃ駄目か?」 何と言ったのか分からなかった。 「わたしじゃ駄目なのか? なあ、駄目なのか?」 振り向く事も出来ずに、震えた声に釘付けにされる。 「――答えろ!」 思わず肩が震えた。 突然ナツキの細い腕に背中から抱き抱えられ、一歩も動けなくなる。 「わたし以外の誰かがお部屋係になるなんて嫌だ」 何故あの時、舞衣に言われた言葉に過剰反応してしまったのか、今なら少し分かる気がした。 「わたしは他の誰かのお部屋係になんてなるつもりはない」 ――それは、答でも、分からない振りをやめる訳でもないのかも知れない。知らん振りに関しては分からない。そんな態度を取って来たとは自分でも分からないんだから。 ただ、これが自分なりのけじめだ。 信じられるものだけを信じたらいい。 「わたしは目の前のお前を信じる」 胸の辺りがちりちりと痛む。 焦燥感ではない痛みが酷く胸に痛い。 何故か目頭までが痛くなる。 「うちは誰でもええなんて言うた覚えあらへん。……ナツキ」 「…………」 「なに?」 「……それじゃ質問の答えになってないだろ」 掠れた声が篭る。散々言い散らした後で今更敬語は使えないとでも思っているのだろうか。 シズルはくすりと笑ってナツキの手を取って、上から覆うように重ねる。 「うちな、案外しつこいんよ」 ――覚悟してな。 そう呟いたシズルの声に、ナツキは困ったように微笑んだ。 END |
あとがき |
★私の中の静なつ観として。静留さんというのは満たされてるからこそ器が大きくて、そうでないと酷く脆くてそれを誤魔化している、というイメージがありまして。だからそういった部分を打破してあげられるのが、なつきなんだろうなあ、と。 ★なつきはなつきでヘタレです。ええかっこしいのくせに実力が伴わなかったり。でも誰かの為ならものすごく頑張れる子だと思うのです。だから、ガルデローベの学園長なんてポジションを与えちゃうと、案外頑張れちゃうのです。頑固で責任感が強い子っていうのはそういうモンかなあ、と。 ★だからお互いがいてこそ本領が発揮されると思うんですね、静なつは。 ★思いっきり静留とシズル、なつきとナツキを混同してますけど、広い目で見た場合の話ですね。作品ごとにこまかな性格は勿論違いますけれども。 ★そんなこんなで今回のお話は、シズルさんの脆い部分をナツキだからこそ、極々自然に補ってあげられる話になりました。 ★アレですね。目に見えて「守ってあげる!」とかではなく、ただ一緒にいてあげる事で満たされる感じ、でしょうか? そういうのをあとがきでなく本編で表現しろよって話ですが(笑) ★ただ乙は無印と違って扱いが難しい! 何せシズルさんの性格がああだからなあ(笑) ★ではでは楽しんで頂けたなら幸いです。 |