水星と木星のカンケイ


 夕暮れが角度の浅い光を窓越しに投げかけ、二つの細長い影が廊下を行き過ぎる。一方はゆったりと大股で、一方は幾分忙しなく小さな歩幅で後を追う。
「もう随分陽(ひ)が伸びてきたみたい」
「そうだね、この間までは今くらいの時間だともっと薄暗い感じだったもんね」
 ――ええ。
 応じた返事が人気のない廊下でやけに響く。
「こんな時間まで付き合わせちゃってごめんなさい。本当はもっと早く終わらせてしまうつもりだったんだけど……」
「いいよ亜美ちゃん、気にしないでよ。それよりあの先生、視聴覚室の資料の整理なんて、生徒一人に押し付けるか、普通?」
「私が言い出したのよ。見たい資料があったからついでに、と思って……」
「ついでって……。あのね、あたしがたまたま通りかかったから手伝いも出来たけどさ、あたしがいなかったら一体どの程度まで整理するつもりだったわけ? あたしゃ大掃除でも始めるものかと……」
「気付いたら夢中になっちゃって……。お陰で見たい資料も見つかったし、またの機会にと思っていた資料もついでに借りられたから良かったわ。まこちゃんを付き合わせちゃったのは悪いけど……」
 そう言って亜美は済まなそうに上目遣いに様子を伺い、肩を竦ませる。
 まことは呆れたように溜息を吐き出し、これだから亜美ちゃんは……と、腕の中の数冊の本とCD-ROMの類を持ち直した。腕の中のそれは全て亜美の借りてきた「資料」だった。
 これだからあたしがついててあげないとね。――よっと、と資料を揺すり上げる。
「あ、ごめんなさい。重たいでしょう? 私が借りたものだし、やっぱり私が――」
「いいよいいよ。全然重くないし」
 それに、家に届けるって言えば、亜美ちゃんの家に行く口実も出来るしね。
 フフフ、と微笑った吐息が秘密を打ち明けるかのように口を寄せた亜美の耳に掛かる。
 亜美は顔を赤らめつつ、口実なんていらないじゃない、と呟いて数歩前に歩み出る。
 さて、耳が赤いのは夕日の所為かあたしの所為かな、なんて頬を緩めつつ考えて、彼女の後を追う。自分の足音が、生徒たちのざわめきに満ちた昼間よりも大きく響き、思わず誰もいない廊下を振り返る。誰の気配もしなかった。
 まことはすぐに亜美に追い付くと、亜美ちゃん、と一声呼び掛けて彼女を振り向かせ、こちらを向いた頬に軽いキスをする。
「えへへ」
「ま、まこちゃん!」
 ――あ、怒ってる怒ってる。
 案の定亜美は顔を真っ赤にして、今キスをしたばかりの左の頬を押さえて悲鳴のような声を上げる。
「が、学校よ、ここ!」
「誰もいないよ。ね?」
 その言葉がさらに亜美を怒らせるのだと知って、それを言う。
「そういう問題じゃないでしょ!」
 亜美は眉根を寄せ、拗ねた表情(かお)でまことを睨むが、全く反省の色の伺えない緩んだ頬のまことを見ると、その余りの邪気のなさ過ぎる笑顔に、果たして怒りか照れか自覚出来ないままに更に顔を赤くさせ、思わず目を逸らしてしまう。
「もう……だめじゃない……」
「えへへ、ごめん」
 ――やっぱり拗ねてる亜美ちゃんも可愛いなあ、と再びまことの顔が弛むが、でもそれは我慢して口にしない。あまり怒らせちゃ後が恐いから。
「……ごめんじゃないでしょ、もう」
 言って、亜美は赤い顔をしたまま再びためらいがちにまことに視線を戻す。――と、本人の思惑を外れて視線はまことを通り越し、何かを捉えてそのまま止まった。
「――あ」
「へ?」
 腕の中の荷物が荷崩れを起こし掛けているのを気遣いつつ、まことは首だけで振り向くと、視界に人陰を捕らえたその時、亜美の声がその人陰の名を呟いた。
「た、大気、さん…………」
 人陰の、長くつややかな髪が立ち止まった瞬間に揺れる。
「――水野さん……に、木野、さん?」
「あ…………はい……」
 まことの、間の抜けた声が廊下にこだまする。咄嗟に何を言えばいいのかが分からなかったのだが――
 亜美の息を詰める気配が耳を突く。
 ――ヤバイ。
 なんで、こんな時に大気さんがいるんだよ!
 思ってみても栓のない事で、背後の張り詰めた気配に押されて思わずまことの口が喋り出す。
「あ、や、こ、こんな時間までなにしてたんです? 大気さん? 今日はレッスンなんかは……」
「今日は別の用事がありまして……私だけ学校に残ったんです。あなたがたは――……。……いえ、なんでもありません」
 じゃ、私はこれで、と神経質な仕種で踵を返し、元来た廊下を戻って行く。スタスタ、という滑らかな足取りの残す足音が夕焼けに溶け合い、やがてそれも消えた。
 ……しまった。――と思ってみても遅かった。
「……み、見られ……」
「まこちゃん」
「――はッ!」
 刹那、鋭い痛みが脇腹を襲う。
「〜〜〜〜いッ」
 痛みに素直に身体がうち震える。絞り出した悲鳴が途切れ途切れにまことの口から吐き出された。
「…………た、た、たぁ…………ッ!」
 涙目で前方を見上げると、珍しくずんずんと怒った足取りで遠ざかる亜美の姿が滲んで見えた。
「ちょっと待てって亜美ちゃん! ごめん! お願い、待って! 亜美ちゃん! ごめんなさい! 亜美ちゃん!」
 駆け出した瞬間に、名を呼んだ人がぴたりと足を止めて、スタートダッシュを掛けていたまことの進路を塞いで止めた。
「のわッ!」
「本」
「――ッとと!」
 急ブレーキを掛けてなんとか亜美へとぶつかる前に身体を押し止めたが、鼻先が少しだけ亜美の髪に触れ、その瞬間香しい彼女の匂いが鼻孔をくすぐった。条件反射で胸が鳴る。と、そんな事に気を取られている場合じゃなく。
「…………へ?」
「視聴覚室から借りて来た本、忘れてるわ」
「ん? あ、あああ! そっか、ごめんよ」
 くるりとこちらを向いた怒り顔にごめんなさいして、数歩戻って床に散乱した本とCD-ROMを取り上げる。先程亜美から「肘鉄」の制裁を受けた時に落としてしまったのだった。
 せかせかと戻って来るまことを見て、亜美が言う。
「一応、……まこちゃんでも痛いと感じる弱点があるのね」
「おいおい……。さすがにあたしだって鍛えてるところとそうでないところってのがさ。――あ〜イタタ」
 片手で本を抱え、残った右手で左の脇腹のちょっと下、ウエスト辺りを摩る。覚悟して筋肉を緊張させていれば肘鉄くらい何でもないが、気を許している相手からの攻撃では不意打ちを食らうのは致し方ない。
 その時、涙目で口の端を引きつらせるまことの顔を真顔で見つめ返し、突き放すように亜美が言った。
「そこ、わざと狙ったの。まこちゃんの弱点なら知り尽くしてるもの」
「! あ、」
 弱点。なんでそんなの知ってるんだよ、なんて少しにやけそうになるが、再び一喝。
「それに痛いのは当たり前でしょ。思いっきりやったもの」
 ――抑揚のないその台詞にまことは絶句した。
 思いっきり、やった、と亜美の顔に確かにそう書いてある。きっぱりと毅然とした顔で。
「あ……亜美ちゃん……」
 伸ばしかけた腕をするりと躱して可愛い顔をした情け容赦ない戦士が去っていく。
「待って、亜美ちゃん、ごめんなさい! 許して! ね、頼むよ、亜美ちゃん! ねえってば〜!」
 亜美の腕を取り、尚も足を止める事のない彼女の顔を覗き込み、許して! と情けない声で縋りつく。
 それにしても――弱点なら知り尽くしている、だなんて亜美ちゃんも言ってくれるよね、まったく。あたしだって亜美ちゃんの“弱点”ならいくらでも――
「まこちゃん」
「は、ハイ!?」
「変な事、考えないでね。――本気で、怒るわよ」

 ――華開いたその笑顔に再び絶句。
 そして敢え無く、
 ――撃沈。

 反撃の機会すら与えられる事なくあっさりと戦闘は終結した。木星側の完敗で。
 ……“本気”はこれ以上に恐いんですか? 亜美ちゃん……。
 こっそり首筋に伸ばしかけていた手をだらりと下ろして、まことは亜美の数歩後ろに付き従った。
 ――木星の赤道半径は水星の29倍程もあり、太陽系最大の惑星で金星についで光り輝く星ではあるが、どうやら小さな水星にすら全く歯が立たないようだ。何せ水星の核(コア)は太陽系で一番大きいし、昼夜の寒暖差は太陽系一激しいのだ。
 そんな事は一切まことの知らぬ事だが。
 がっくりと項垂れた彼女の顔が今日また陽(ひ)を拝める事は――なかった。
 落ちて行く夕日を浴びながらずんずん進む足取りととぼとぼ付き従う足取りが、やがて廊下の突き当たりで消えた。

◆  ◆

 ふと、思い出したように足を止めて、再び艶やかな黒髪が大きく揺れた。
「まったく、水野さんも人の趣味が悪いですね。よりによって……」
 大気は呆れたように大きく首を振って、そして定規で測ったような正確さで再び歩き始めた。
「あんな学習能力の乏しそうな人とは――」

fin.








POSTSCRIPT
あとがき
★わ〜お。大気ったらまこちゃんに対して酷いこと言ってら〜。(責任転嫁)
★おばかなまこちゃんになってしまいました。気が付いたら一切めげないちょっと頭の悪い子なまこちゃんがいらっしゃいました。対して亜美ちゃんは冷徹です。最初はあんなに大人しそうな可愛い亜美ちゃんを演出してたのに。後半は亜美ちゃんの怒ると恐いぞアワーでした!

★あ、この話は大気の登場でお分かりになる通り、「スターズ」のまこ亜美です。や、「亜美まこ」か(笑)私亜美ちゃんのこういう所が好きなんですよね〜。怒ると恐いトコ。
★あ、ちなみに高校生なふたり、って事で……“弱点”……って、一体何のウィークポインツなんでしょかね〜あははははは。ゴス!(自ツッコミ)もう高校生なんだからさすがの二人もそんな事もあるかもね☆ な二人を…。あわわわわ。
★最近実写で色々あってまこ亜美に飢えてたから、まずい発言がぽろりとね。

★あ…あ…。それからまこちゃんに無理矢理言わせちゃった「ちょっと待てって亜美ちゃん!」って…。(C)実写。
★好きなんだよ〜この台詞が。SS書いてたらふと思い出して、言わせちゃいました。ま〜アニメまこちは亜美ちゃんに「待て」なんて命令口調はしないでしょうけど。(他人には言うけどさ)

★それからこのSS、本当はもっと短くなる予定だったんですけど。ポロっと思い付いて、その日のうちに書上げてささっとUPしようと思ってたのに、結構長くなっちゃって結局ずるずると時間がたっちゃった。
★それにしても当初のオチは、まこちゃんが「弱点ってなんだよ。あたしだって亜美ちゃんの弱点くらい知ってるよ」と言って亜美ちゃんをくすぐって、亜美ちゃんが吹き出しちゃってキャピキャピしながら終わる予定だったのに。亜美ちゃん最強になっちゃった。なんでだろ? きっとそれは実写20話の次回予告の不敵な笑みを浮かべる凶悪な亜美ちゃんの所為でしょう…。(ちなみに21話はまこ亜美遊園地デートの回(の予定)放映まだなんだよ〜〜〜。く〜楽しみ!)




Waterfall//Saku Takano
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