イタズラナ春ノ風


「きゃ」

 春のぽかぽかした陽気が気持ち良くて、それなら換気でもしようかと窓を開けた途端、――気紛れな風が勢い良く飛び込んで来て亜美の柔らかな髪を乱暴に攫っていった。
 窓際のサイドテーブルに置かれていた桃色の花弁の椿の切り花を抱(いだ)いたガラスの花器が、突風の不意打ちを受けカタカタと踊り出す。慌てて手を伸ばし倒れかかるのをすんでの所で留める。
「び……びっくりしたぁ」
 前髪を跳ね上げたまま呟いて、そうっと花器を元の位置に戻しやる。
 それからようやく気持ちを落ち着けて視線を窓の外へと向けると、さわさわと柔らかな風が前髪を弄んで逃げていった。
 風は既に凪いでいたが、一応半分程窓を閉め戻し、20cm程の隙間から流れ込んで来る暖かい風を頬で受け、深呼吸をひとつ。――もうすっかり春らしい陽気が亜美と部屋とを満たしてゆく。

「あら」
 視線を手元に戻すとハンドメイドの写真立てが顔を伏せており、先程の被害を被ったのだと知って、それもまた立て直す。まことがお気に入りの雑貨屋で買ったもので、亜美も自室に同じものが飾ってある。まことの部屋に飾られている写真立てには、去年、みんなで桜の木の下で撮った写真が入れられており、真新しい十番高校の制服とTA女学院の高等部の制服とに身を包んだ、ほんの少し幼い5人が微笑んでいた。
 その写真の中の彼女と目が合って、微笑みがこぼれる。
 何気なく、それと意識しないまま彼女の輪郭をなぞる。
 ――まことの髪を、頬を、肩を、腕のラインをなぞり、彼女の存在を確かめる。桜の木の下で、髪にかかる木の枝を気にする、頭ひとつ分背の高い彼女。
 亜美は優しい手触りの木製の写真立てを目の高さまで持ち上げると、まことの笑みを見て、唇をそっと彼女の頬に、軽く、押し当てた。

「こっそりな〜にしてるのかな? 亜美ちゃん」
 写真の中のまことが――ではなく、いつの間にか部屋のドアにもたれ掛かっていたまことが、からかうように問いかけた。
「まっ」
 突然の事に驚いて声にならない。
「い、いつから――そ、」
 そこに? と言いかけるが、言葉がうまく出てこない。
「丁度今来たところ。――それより今何してたのさ?」
 ん? とからかうように口の端を持ち上げて、まことは亜美の顔をまじまじと見遣る。喫茶店のウェイトレスよろしくトレイを片手で持ち、バランスを崩さず器用にこちらへ歩み寄ってくる。品の良い小振りトレイの上には二対のカップとソーサー。そこから暖かな湯気が立ち上っている。
「な、何って……別に……」
 亜美はくるりとまことに背を向けると隠すように写真立てをサイドテーブルに戻し、不意に髪が乱れたままなのを思い出して忙しく前髪に手櫛を通した。頬の赤い顔を見られたくなくなかったから。
「換気をしようと思って窓を開けたら……その、風が強くって、か、花瓶が倒れそうになっちゃって……」
「うん、それで?」
 いつの間にか亜美のすぐ後ろまで来ていたまことはトレイごと亜美に紅茶を差し出すと、言葉の先を促した。
 亜美はありがとう、と言ってカップのひとつをソーサーごと受け取り、その淡い色合いに視線を落とした。言葉が続かない。
 その代わり、まことが質問を繰り返した。
「今、何してたの?」
 そう問いかけるまことに長い沈黙を押し付けて、暫くしてからようやく小さくて掠れそうな声を押し出す。
「……まこちゃん、いじわる」
 …………見ていたくせに……、そう呟くと、まことの煎れてくれた紅茶にそっと口を付けた。
「あ、あつぅい……」
 余りの熱さに涙まで滲む。
「うん、煎れたてだから。火傷しちゃうよ」
 亜美はばつが悪くなって増々顔を赤らめ、カップをソーサーに戻し、それをサイドテーブルに置いた。
 まこともトレイから紅茶を取り上げると、トレイをベッドの上に放り出し、亜美の置いた紅茶の隣に自分のカップを置いた。
「さっきの、見ちゃった。一体誰にキスしてたのかなあ」
 増々縮こまる亜美の肩に手を置き、もう一方の手で写真立てを取り上げる。毎日眺めている写真を改めてまじまじと見詰め、フレームの中の亜美の御機嫌を伺った。桜の木の下で微笑む彼女は本当に嬉しそうで機嫌は悪くはなさそうだが、まことの隣で小さな体を強張らせるこっちの彼女の御機嫌は、決していいとは言えないみたいだった。
「ん――、美奈子ちゃんにキスしてたのかなあ……、や、レイちゃん……? それともうさぎちゃんかなあ……。
 ねえ、亜美ちゃん?」
「もう、まこちゃんってば――」
「あれれれれ? 顔が赤いよ亜美ちゃん。もしかして――あたしにキス、してたのかなあ?」
 真顔で白々しいセリフを言ってのけるまこと。
 亜美は堪らなくなってまことの手からするりと抜け出すと、手近にあった枕を掴んで胸の前に抱いて顔を隠してしまった。
 その姿を見てまことは思わず笑みをこぼすと、サイドテーブルのカップを取り上げ、さも美味しそうに紅茶を飲んだ。
「う〜ん、我ながら会心の出来だね。美味美味〜」
 暢気(のんき)に呟いて、春だね〜なんて窓の外に目を向ける。
「で、誰にキスしてたのかなあ?」
 まるで独り言を言うように、窓の外に目を向けたまま、ぽそりと呟く。口の端に何か確信めいた微笑みをたたえて。
 亜美は少しだけ枕をずらし、上目遣いにまことの様子を伺った。時折強く吹く風にポニーテールを遊ばせて、潔い項を春の風にさらし、瞳を真直ぐ前に向けて立つ彼女はとても――潔かった。
 私をからかっているくせに、いじわるされているのに、どうしてこんなに胸が高鳴るのだろう。
 ずるい。
 ――だから、わざと怒ったような表情(かお)をして、言ってみた。
「……もし、他の誰かにしていたら、どうするの?」
「え?」
 然も意外そうな顔をして、彼女がこちらを振り向いた。
「どう……するの?」
「……どうって……」
「少しは、やきもちとか……妬くのかしら?」
「え? あ、考えてもみなかったからなあ? やきもち……妬くかな?」
「――――!」
 ――もう、どうしてそこで疑問形になるのかしら。
「もういいわ」
 溜め息と共に諦めの言葉を吐き出しながら、枕をまことに押し付ける。
「え? 亜美ちゃん?」
 むくれた亜美の横顔を覗き込み、目をしばたたかせながら、まことは今迄の会話を反芻して亜美の不機嫌さの原因を考えてみたのだが。
「えっと、亜美ちゃんがあたし以外の人にキスなんてする訳ないからなあ、ちょっと想像つかなくってさ。もしかして……怒ってるの? あたしが変な事言ったから」
 ――亜美ちゃんがあたし以外の人にキスなんてする訳ないから。
 亜美ちゃんがあたし以外の人にキスなんてする訳ないから。
「………………」
 亜美は思わず手を口元に当て、俯いたまま顔を上げる事が出来なくなってしまった。
「……ばか」
「え? 何? やっぱりあたし変な事言った? ごめん。友達にキスするとかそういうの冗談でも言われるのヤだよね。ごめんね、亜美ちゃん」
「そうじゃなくって!」
「へ?」
 顔を上げた瞬間、まさに鳩が豆鉄砲を喰らったかのような表情を浮かべるまことと目が合い、亜美はなんだか無性に悔しくなって、まことの腕の中の枕に顔を押し付けた。
「あ、亜美ちゃん?」
「――ずるい」
 あっさりと、そんな事を言ってのけるまこちゃんは、ずるい。
 亜美ちゃんがあたし以外の人にキスなんてする訳ないから。――やきもちすら妬かせられないなんて。
 亜美ちゃんがあたし以外の人にキスなんてする訳ないから。――あっさり、バレちゃってる。
「あ、亜美……ちゃん?」
 ずるい、と言ったまま押し黙り枕に顔を埋めたままの亜美を見下ろし、何が何やら訳の分からなくなってしまったまことは、仕方なしにそのまま亜美のしたいようにさせてやる。
 でも一向に亜美が何も言わないのでしびれを切らし、まことは一旦紅茶をサイドテーブルに戻すと、亜美背中を撫でてやり、あの、と頼り無く声を掛けてみた。
「亜美ちゃん、ちょっと質問しても、いいですか?」
「…………なに?」
「えっと、どうして怒ってるの?」
「…………怒ってるんじゃないわ」
「……じゃあ、どうして何も言わないの?」
「……………………」
「多分、あたしがからかったからじゃ、ないみたいだけど。亜美ちゃんもしかして怒ってる風にしか見えないけど……でも……でもホントは、照れてるの?」
 ピクリと、僅かに亜美の肩が揺れる。
「……………………」
「……あの……さ、あたしは……、その……亜美ちゃんがあたし以外の人に、キスなんてしないって、分かってるし。だから……、別にやきもちなんて妬かないよ。でも――」
 言い終わらぬうちにまことは枕を剥ぎ取ってしまい、亜美の小さな悲鳴を耳に残しつつ枕をベッドに投げ返して、両の手で亜美の頬を挟み無理矢理顔を上げさせた。
「ま、」
「亜美ちゃん。写真にキスするのと、本物にキスするのと、どっちがいい?」
 ピクリと、もう一度亜美の肩が揺れる。
 まことが少し屈んで、亜美に顔を近付ける。徐々に薄らとまことの顔が赤らんでゆく。
 そしてちょっと照れたまことが問う。
「本物にはキス、してくれないの?」
「まこちゃ――」
「してよ」
 ドキリ、と胸が鳴る。亜美の胸も――、
 まことの胸も――。
 違いに見つめ合って気持ちを推し量るように視線を絡め合う。僅かに、それと分からないくらいに互いが距離を縮め合う。
 やがて亜美はまことに凭れるように少し前に倒れかかりながら背伸びをして、まことの唇に自分のそれを重ねた。
 まことの上唇を両の唇で挟むようにしてキスをする。舌先で唇を確かめるように口付ける。
「もっと、深いのがいい」
「――――」
 ねだられて、押し付けていただけの唇を開いて舌を差し入れる。
 今度は言葉ではなく、唇で、もっと、とねだる。亜美もそれに応えて、背伸びをする爪先に力を込めまことにすがりつき、更に深く唇を重ねる。
 深く。

 いたずらな風が二人の髪にじゃれついて、邪魔をする。
 まことは亜美の髪に指を滑らし、亜美が風の所為にしてキスをやめてしまわないように柔らかく抵抗する。

 やがて長く結びついていた唇を離し、濡れた彼女の唇を弄びながら、まことは小さな声で亜美の耳に囁いた。
「……ね、写真よりも本物の方がいいだろ?」
 そう言った彼女は照れて少し戯けているのか、それとも本気で思って言っているのか、はにかんだ微笑みの中のどこか真剣みを帯びた視線からではどちらとも分からない。
「……ばか」
「ね、どっちのがいい?」
「…………知らない」
「知らないじゃないでしょ。それじゃ質問の答になってないじゃないか」
「………………」
「なんなら、もっかい試してみよっか?」
「……………………ッン、」
 亜美が答えるより早く、唇が重ねられる。
 少し長めのキスの後、啄むように小さな優しいキスを繰り返す。
「だめ、もう、だめよ」
「いいじゃないか。――ン、もう亜美ちゃんが写真じゃ満足出来ないようにいっぱいしてるんだよ」
「!」
 まことの言葉に心臓が跳ねて、頬が熱を帯びる。
「…………ん…………ばか」
 ――まこちゃんの、いじわる。

   止まない春の風と、キス。
「こら、まこちゃん。あッ、だめったらだめなの」
 紅茶、冷めちゃうわよ――言いながらも背伸びをした爪先は正直で、上げた踵を下ろそうともしなかった。
「まこちゃんが、離して、くれない、から」
 まことは亜美を抱き抱えたまま、いいよ、また煎れてあげるから、と軽いキスをして、もう一度深く口付ける。
 そして、唇に残る余韻を惜しみつつゆっくりと唇と離すと、もう一度同じ問いを繰り返した。
「……ね、写真よりも本物の方がいいだろ?」
「……もう」
 亜美は赤らんだ顔で精一杯ポーカーフェイスを浮かべて問いには答えないで、いつの間にかどこからか舞ってきた桜の花びらがまことの髪でそよぐのをそっと指で取ってやる。その手でさらに乱れたセーラーの襟を正す。
 桜の花びらが紅茶の水面で揺れているのをちらりと見遣り、冷めた紅茶の温度を推し量って溜め息をついて、――それからようやく亜美もまた同じ答えを繰り返した。

「……ばか」

 ――本物のまこちゃんの方がいい。
 心の中で、そう言いながら。
 もう一度だけ、キスをした。

fin.








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あとがき
★や〜桜も開花したって事で。
★だから?
★んだよ文句あっかよ、べらんめい!

★って誰に喧嘩売ってるんでしょうね。恐らく自分にでしょう。げっそり。
★な、なんか後半すごく嫌なんですけど、自分で書いておいて何ですが。あ〜恥ずかしい。
★今回のテーマは「バカップル」だったんですが(--;)まあ、バカップルには違いないけど、なんでこんなにいちゃいちゃしてるんでしょうね。もっとソフトなバカップルな二人の予定だったのに。どうやら私の書く二人(っていうかまこちゃん)は誘い受けするのが好きみたいですね、ええ。「オメー誰だ!」って言ってやりたいです。

★それから。このSSは高校2年の春って事で。スターズ終了後しばらくして、ですかね。なのですっかり出来上がっちゃってます、茹だっちゃってます、尚且つ万年新婚バカップルです。以上。




Waterfall//Saku Takano
Since September 2003