怪我の功名…? |
――こんな朝早くに誰かしら?
広いリビングにインターフォンの呼び出し音が鳴り響いた。 朝の静寂を掻き乱し、先程病院から戻って寝付いたばかりの母が目を覚ましやしないかと冷や冷やしながら、亜美は怪訝そうに首を捻った。 視界の端の壁掛け時計を見遣り、素早く歯ブラシを口から引抜いて泡を洗い流し、用意しておいたマグカップの水で口を漱ぐ。それから急いで洗面所を飛び出した。 なるべく早足でインターフォンを目指してリビングを横切るが、思うように身体が動かない。右足を引き摺るように小走りし、とにかく急ぐ。 幸いそれ以降は呼び出音が続く事もなく、取り敢えずは母の眠りを妨げる事がない事に安堵した。やがて先程のコールから猶に1分程の時間を経てからようやく通話ボタンを押す事が出来た。 「はい」 インターフォンのマイクに向かって返答を返すが、モニターはまだ起動中で映像を結ばない。 小さな画面に、マンションの1階のインターフォン前のフロアが現れるまでの僅かな間に、亜美はもう一度こんな時間に誰だろうと思考を巡らせた。先程確認した時間は7時20分。人を訪ねるのに紳士的な時間とは言えないが……。 モニターが小さな音を立て、徐々にぼやけた映像を写し出す。 やがてそこに映し出された姿を見て、亜美は思わず素頓狂な声をあげてしまった。 「ま――、まこちゃん!」 『おはよ、亜美ちゃん。朝早くにごめんね。びっくりした?』 びっくりしたどころではなかった。思いも寄らぬ来訪者の姿に驚き、果たしてインターフォン越しの彼女に、自分の姿が見えていない事に感謝をした。――きっとすごく嬉しそうな顔をしてしまっているに違いないから。 訳もなくこんなにも嬉しそうにしている自分の表情を見たら、まこちゃんはなんて思うだろうか……。きっと変に思う。 心臓を押さえるように胸に手を当て、思わずインターフォンに半歩近付く。 「どうしたの、こんな時間に……まだ7時半前よ? 何かあった?」 鼓動の加速と共に速まりそうになる口調をなんとか抑えつつ、なるべく平静を装って問いかける。 するとインターフォンからは少し呆れたような返答が返って来た。 『何かあったって……、もう、これだから……。 ね、脚大丈夫? 一人じゃ学校行くのも大変かと思ってさ。それで迎えに来たんだよ』 「え! ……私の、為に……!?」 亜美はちらりと自分の右足を見下ろした。昨日のダイモーンとの戦闘で捻った足首に、きつくテーピング用のテープが巻かれている。 『大丈夫?』 「え、……ええ。……それにしても、驚いたわ……」 『――もう、そんな脚で一人で学校まで行けると思った? まったく自分の事だと無頓着なんだから……』 呆れたような笑みを浮かべて、まことが少し首を傾げた。その笑顔の優しさに、またしても鼓動が強く早くなっていく。 『ね、1階(ここ)の玄関開けてよ』 まことがフロントのドアのある辺りを指差し、はたと気付いて慌てて解錠ボタンを押した。勤勉なセキュリティーシステムのお陰で外来者は内側からドアを開けて貰わないとマンション内には入れない。やがてまことは手を振りモニターの外側に消えていった。 ――ピ、 ボタンを押し、モニターの電源を切る。 はあ――、 思わず大きな溜息をついて、暗いモニターを見つめた。 もうすぐまこちゃんがやってくる。そう思うと気持ちに正直な頬が染まった。 いつから彼女をこんな風に意識し出したのか……。彼女の事を考えると、他の友人たちに感じる好意とは全く別の感情(きもち)が湧いてきた。 多分……きっと……。 きっと、これが「恋」というものなのだ。 そんなものは自分とは無縁のものだとずっと思っていたのに――。 今まで誰にも恋心なんて抱いた事はなかったのに、そうと気付くと、彼女を想う気持ちが毎日少しずつ大きくなって、いつしか疑問が確信へと変わっていた。 きっと、これが「恋」。 一緒にいるだけで、それだけで穏やかな気持ちになれて、時には不安になったりこっそりやきもちを焼いたり――。 決して口には出来ないけれど。 女の子同士だというのは分かっているけれど、でもそれはどうしようもない事だから。 告白することや彼女にこの気持ちを押し付ける事はそんなに大事な事ではないし、ただ想うだけならば好きになるのが男の子でなくったって女の子だって、違いなんてそんなに重大な問題ではない。――だってどうしようもない事だから。 私はまこちゃんがすきだから。 一緒にいられるだけで、穏やかな気持ちにさせてくれるだけで良かった。彼女に気持ちを打ち明けようとは思わないし、このままでいい。 この気持ちをくれたまこちゃんと一緒にいられるだけで、いい……。 みんなと出会って自分は少しずつ変っていって――そして彼女と出会って、恋をする気持ちを知って、恋をする事がこんなにも素敵な事なのだと初めて知った。この気持ちをくれたまこちゃんがすきだから。 だから、いいの。 「まこちゃん……」 そっと彼女の名前を口にして、そして右脚の足首に触れる。……怪我をしてその所為で戦力が低下し皆を危険をさらすようになってはいけない、――と自分を戒めている頭のどこかでは、こんな風にまこちゃんに優しく接されるのを嬉しく思ってしまう自分もいて。それに気付くと自己嫌悪を感ぜずにはいられないが、確かに、こんな風に優しくされる事を嬉しく思う気持ちは消せなかった。 ――まこちゃんがすき。 ピンポ――ン、と再び鳴らされたインターフォンが亜美の意識を呼び戻した。 「あ、待ってて。今、玄関を開けるから」 直ぐに通話ボタンを押して、玄関前に立つまことにそう告げる。 『無理しないで、ゆっくりでいいよ』 そうは言われても、勝手に身体が急いでしまう。 「お早う、まこちゃん。わざわざごめんなさい」 言いながら半分程ドアを開け、残りをまこと自身が開いて中に入る。 「おはよ、亜美ちゃん。どう? お母さんに診て貰った?」 「ええ、専門じゃないから確実な事は言えないけれど、恐らくは捻挫だろうって。一応学校が終わったら、病院できちんと診察して貰うわ」 「そうだね。じゃ、その時はまた付き合うから――」 そう言いかけたまことの言葉を亜美は咄嗟に遮る。 「ううん。大丈夫よ。ごめんなさい、気を使わせてしまって。……私が不注意だったばっかりに……」 「あーもー、何言ってんだい。怪我をした時はお互い様だろ。それに不注意なんかじゃないって。ああいう時はむしろ誰かがちゃんとサポートに回るべきだったんだよ。チームプレーってそういうもんだろ?」 まことは呆れているのかそれとも怒っているのか、いつもよりも険しい顔をして亜美の顔を覗き込む。 「だ――か――ら! 『ごめんなさい』はなし、だよ!」 そう言って亜美の鼻の頭を突ついた。 そんな仕種に少し戸惑いながらも、亜美は頷く代わりに微笑んで、そうね、と言った。 そう。 いつまでも「ごめんなさい」ばかりでは折角のまことの好意も台なしになってしまう。――だから。 「ありがとう!」 「――うん。それでよし!」 亜美の笑顔に満足して、まことは大きく頷いた。 「あ、上がって待ってて。もうすぐ準備出来るから」 「ああ、急がないでよ」 言われるままに靴を脱ぎ、揃えてから上がる。まことはセーラーカラーをぴょこぴょこと跳ね上げて自室へと急ぐ亜美の後ろ姿を見て、言ってる側から急いじゃってるよ、と苦笑しつつ溜め息をついた。 そしてリビングのソファーに腰を降ろし、亜美の支度が出来るのを待つ。 その内にある事をはたと思い出し、急いで腰を上げて亜美の部屋のドアをノックした。 やや間を置いてからドアが開く。 「なあに、まこちゃん」 亜美がほんの少し小声になるのに合わせ、まことも少し声をひそめる。 「亜美ちゃん、今日のお弁当、どうするつもり?」 「え? あ……、今朝は母がさっき戻ってきたばかりだし、コンビニでサンドイッチでも買おうかと思っているんだけれど……?」 「そ。それなら良かった。そんなところかなと思ってさ、実は亜美ちゃんの分もお弁当作って来たんだよ」 ――ホラ、とお馴染みの巾着袋にもうひとつ色違いの巾着を持ち上げる。 「もし、もうお昼用意しちゃってたらどうしようかと思ってたんだけど。良かった、一緒に食べよ」 「え……!」 亜美は突然の事に驚きながらも、こんなにも自分の事を気に掛けていてくれるのが嬉しくて、自然と顔がめいっぱい綻でしまう。 「あ、ありがとう。――本当に」 「えへへ」 ――どーいたしまして、とつられるようにまことも満面の笑みで微笑み返した。 亜美は彼女の屈託のない笑みに何だかほんの少しだけ照れくさくなって、振り返りながら、もう少しだけ待って、とドアを押し開けてまことを自室に招き入れた。右足に重心が掛からないように気を付けながら机の所まで行き、腕時計を取る。 そしてそれを左腕にはめながら、改めてまことがいてくれて良かったと思った。 怪我をしてるとやっぱり不便な事も多いし不安にもなったりするが、彼女がいてくれるだけで本当に助かるし、――何より安心感で満たされた。 まことは気遣いが上手い。極自然に誰かの為に何かをしてあげられる人だと思う。 何の衒いもなく、怪我をした友達の為にこうして家に駆け付けるし、母が寝室に寝ているのを察して小声で話してくれたり。インターフォンだって寝ている母の事を見越して、何度も押したりしなかったのだろうと思う。 ちらりとまことを見ると、腕を組んで壁に寄り掛かってこちらを見ていたようで、視線が合った。 彼女はにっこり笑うと、気遣うように問い掛けて来た。 「準備、出来た?」 「ええ。お待たせちゃってごめんなさい」 「じゃ、行こう」 そう言ってまことは素早く机の上に置かれていた学生鞄を取り上げると、片手で自分と亜美の鞄を持ち、余った方の腕を差し出した。 「え?」 「掴まりなよ。体重思いっきり掛けちゃっていいから」 はい、と腕を亜美の方に寄せて来る。 その勢いに押されて、亜美は遠慮がちにまことの腕に触れる。 「じゃ、じゃあ」 くの字に曲げられた肘の内側に手をやるが、妙にその感触を意識してしまう。なんて事ははい。ただ腕を組むだけなのに。 でも自然と顔が赤く染まってしまう。 「ああ、もう、そんなんじゃ意味ないだろ。ちゃんと掴まりなよ。――そうでないと……」 「え?」 「無理矢理連れてっちゃうからね!」 ――よいしょ。 耳元で彼女の声が響いたかと思うと、いつの間にかふわりと身体が宙に舞っていた。 「きゃ!」 何が起ったのかが瞬時に理解出来ない。気が付くと目の前にまことの横顔があった。 「実力行使しちゃうからね!」 そう言うと、物凄く近くでまことが、に、と笑った。 亜美は軽々とまことに抱きかかえられ、そのまままことは亜美の部屋を出て廊下を進んでいく。 「ま、まこちゃん、待って」 「しぃ――。静かにしないとお母さん目が覚めちゃうって。ホラホラ、怪我人は良い子にしてる!」 ――ね、と更に間近で顔を覗き込まれ、正直に身体が反応してビクンと大きく震えてしまう。 しかしまことはそんな反応にもお構い無しで、どこか上機嫌に廊下を突き進む。 「まこ……ちゃ……」 声にならない消え入りそうな声で名前を呼ぶが、立ち止まる気配も、ましてや降ろす気配などない。 ――所謂これは「お姫さまダッコ」という格好で。 …………はずかしい。 「……降ろして」 「だめ」 恥ずかしくて恥ずかしくて恥ずかしくて、心臓がこれでもかというくらいに激しく高鳴って、酷く動揺してしまう。 まことの顔が近くにあって、身体が密着していて、――抱きかかえられているなんて。彼女の近くにいられる事は嬉しいが、これでは近過ぎだ。 おまけに……、なんだか自分の体重まで知られてしまいそうで、気が気でない。 そう思った瞬間。 玄関に辿り着いたまことは、亜美を抱きかかえたまま見下ろして、ぽつりと問うた。 「正直な所、亜美ちゃんって体重どのくらい?」 「えぇッッ!?」 「本気で全然重くないんだけど……。体重、45キロないでしょ?」 「ちょ……な……、と、とにかく降ろして……お願い……」 ――た、確かにないけど。 言いたくない。絶対。 「なんかこのままお姫さまダッコして学校まで行けそうなんだけど」 「ふ、ふざけないで」 「や、ホントに。……よんじゅう……さん?」 「いいから。降ろして」 「よんじゅう……に? いち?」 いちいちこちらの反応(かおいろ)を伺わないで欲しい。 「――絶対答えないから!」 「いいじゃないか。――っていうか軽過ぎだよ! あ……、でも細いけど案外骨骨しい感じでもないよね。筋肉……って感じでもないし。結構やーらかい」 「――きゃあ!!」 突然、身体に回された手がもぞもぞと動き、腿に当る感触のくすぐったさと驚きで思わず悲鳴を上げてしまう。心臓も早鐘のように打ち鳴らされる。 「や!」 「えへへ。ごめん。いたずらしちゃった。これってセクハラかな?」 「と、とにかく降ろして。本当に。お願い……!」 このままでは心拍数が上がり過ぎて失神でもしてしまいまそうだ。――心臓が痛い。 「ちぇ」 さすがに顔も耳も真っ赤にして、おまけに涙目にまでなってしまっては、いつまでもいじめてはいられない。渋々そっと亜美を降ろしてやりながら、まことはぼやいた。 「――残念」 「ま」 ゆっくりと優しく降ろされながら、聞き捨てならない言葉を耳にして、亜美は思わずまことを振仰いだ。 「まこちゃん……?」 「ん――?」 「ざ、残念って……言った?」 「――――」 まことはじっと亜美の目を見据えてしばしそのままでいたが、やがてふっと視線を逸らし、はぐらかすように呟いた。 「……さあ?」 「…………?」 顔に疑問符を浮かべる亜美をそのままに、玄関で屈んで彼女の靴を引き寄せてやりながら、ちらりと見ると、案の定戸惑ったような表情をして困り果てていた。 きっちり予想した通りの反応を返す亜美に苦笑して、あんまりイジメちゃかわいそうだな、と自戒しつつ、こういう所が亜美ちゃんらしいんだよね、と反省しきらずに微笑みをこぼす。真面目というか冗談が通じないというか……。 やっぱり残念……だったな? 「……亜美ちゃん、なんか猫みたいで面白いし」 ――もうちょっとダッコしてたかったかな。 わざと聞こえよがしに言って亜美の反応を伺う。 何気ない素振りで振り向くと、顔を真っ赤にして俯き加減で視線を彷徨わせている亜美がいた。 ――あはは、可愛いなあ。 だからもうちょっとだけからかいたくなったから。 「じゃ、行こうか、学校!」 そう宣言して、再び彼女の腰に手を回し、素早く抱え上げた。 「きゃ!」 驚いて身を固くする彼女。 そして恨みがましく見上げる視線。 顔は真っ赤で、拗ねたようなハの字の可愛らしい眉。 やっぱり予想した通りの反応を返してくれるから。 「……ふざけないで」 そのくせ強気な声を出すから。 「ふざけてないよ。このままダッコして学校行くからね!」 いじわるしちゃいたくなるじゃないか。 「や、やだ! 降ろして!」 焦って飛び出る子猫みたいな声。 ――可愛い。 「お願い。降ろして……まこちゃん!」 あまりに必死に懇願するものだから。 しょーがない。勘弁してあげるとするか。 「じゃあ、降ろしてあげるから――」 言いながら、脚に負担が掛からないようにゆっくりと亜美を降ろしてやる。 そしてようやく地に足が付いて、ほっと安心したように溜息をつく亜美に、ここぞとばかりに念を押す。 「歩く時は確りあたしの腕に掴まるんだよ!」 イタズラっぽい笑顔を浮かべて、まことは亜美に向かって腕を差し出した。 「ね?」 亜美は相変わらず顔を真っ赤に染めながら、渋々といった風な仕種を見せて、そっとまことの腕に手を掛けた。そして上目遣いにまことの顔を覗き込みながら、ぎゅ、と力を込めてまことの腕に掴まった。 「…………うん」 fin. |
POSTSCRIPT |