HAPPY BIRTHDAY TO YOU |
履き慣れたランニングシューズがリズム良くアスファルトを叩く。夕闇の中、通い慣れたランニングコースは残暑の気怠い蒸し暑さに包まれていたが、心地よい汗を掻き、むしろ爽快な気分でまことは自分の巻き起こす風に身を委ねていた。
耳にささったイヤホンからはお気に入りのポップスが流れ、アップテンポのメロディーが背中を押してくれているのか、このままどこまでも走って行けそうな気さえもする。 久々に気持ちの良いランナーズハイを味わっていた。 「……はあ」 無意識の内に、またひとつ溜息がこぼれた。 これで何度目だろう。 もう数える事さえ空しい程の溜息が、自分の口から吐き出されていた。 「……はあ」 ――またひとつ。 溜息はついた数だけ幸せが逃げていくと言うけれど、今はもうそんな事もどうだって良かった。塾からの帰路を辿る足はひたすら重い。 こんな事は初めてじゃないのに……。 今年はいつもよりも寂しさがつのる。 コンビニエンスストアのビニール袋がシャリ、と鳴いた。――お夕飯にとお惣菜を2品程買ったけれど、どうも食べられそうにない。冷凍のご飯を一人分レンジで温めて、お味噌汁とサラダを作って――そんな事をしていると増々惨めな気持ちになってしまいそうだ。 「ママったら、何もこんな時に出張へ行かなくったって……」 学会も閉会した今頃はお偉方と優雅なディナーを囲んでいるだろう母を恨めしく思う事はなかったが、今日だけは、普段なら決して言う事のない恨み言のひとつもこぼれ出てしまう。 ――お誕生日なのに……。 今日で15歳の誕生日。 一人きりの誕生日は今迄にも何度か過ごしている。なるべくそうならないように母は気遣ってくれてはいるが、仕事柄どうしてもプライベートな都合は後回しになってしまう。 一人きりの誕生日もクリスマスももう慣れている筈なのに、今年はなんだか寂しさが増してくる。 母を見送った笑顔も、「いってらっしゃい」の言葉も、コンビニのお惣菜も一人きりの暗い部屋も、みんなぐちゃぐちゃに丸めてどこかに投げ捨ててしまいたい。 そう思いながら酷くもやもやとした気分のまま、半ば無意識でフラフラとここまで歩いてきてしまったが、随分と家からは遠い所まで来てしまった。 でも、……いい。 家で誰が待っている訳ではないし、もっとダラダラ歩きながら帰ったっていい。 ……どうしてだろう。こんなにも寂しいのは。ひとりなのは慣れていた筈なのに――。 「…………あ」 思わず少し大きな声を出していた。擦れ違ったサラリーマンがこちらをちらりと振り返る。 薄暗い遊歩道の先に見知った人の姿が見えた。 小さな期待が胸に小さな波紋を描く。 でも。 それを直ぐに打ち消す理性が働く。 ただ彼女は通りがかっただけなのだ。何も期待しちゃだめ。 ――ああ、そうだ。 こんなにも寂しいのは、私にも大切な仲間が――友人たちが出来てしまったから――。 うさぎちゃん。レイちゃん。美奈子ちゃん。まこちゃん……。 だから……。 だからこそ……。 「あ! 亜美ちゃん!」 亜美が彼女の姿に気付いてから、少し遅れてようやく友人の姿に気付いたまことが、片手を上げて軽快な足取りでこちらへとやって来た。 「……まこちゃん、こんばんは。熱心ね。トレーニング?」 「うん。たまにクンフーの練習日じゃない日は、5kmぐらい流してるんだ」 まことは亜美の目の前まで来ると、足は止めずに足踏みしながら、楽し気にそう言った。 「亜美ちゃんは? 塾の帰りかい? 遅くまで頑張るね」 足踏みの所為で声がリズミカルに弾んで聞こえる。足を止める気配はない。 「……ええ。――講師の先生に質問していたら遅くなっちゃった」 「――――ふぅん……?」 まことは亜美のどことなくぎこちない笑顔に、ふと疑問が湧く。 なんか元気ないみたい……? そう思って何となく聞いてみたのだが。 「亜美ちゃん、今日誕生日なのにこんなに遅くまで外出してていいのかい? お母さんは?」 聞いた途端、亜美の顔が更に強張ったような気がして――。 「…………。出張なの、明日まで」 そう言いながら亜美はなるべく一生懸命微笑んだ。――つもりだったが。 亜美のその言葉を聞いたまことの足が不意に止まった。 「……じゃあ、今晩は独り?」 「……ええ。でも別に不都合はないの。仕事柄母が家を空ける事は少なくないし、もう慣れっこだから。でもそのお陰でお料理もお洗濯も結構上手なんだから。あ、まこちゃん程じゃないけれど。あ、でも今日は手抜きしちゃってコンビニでお惣菜買――」 「亜美ちゃん」 「え?」 しかし、まことは亜美の名を呼んだはいいが、実の所何を言うべきか全く考えていなかった為内心焦っていたのだが、しかしながら次の瞬間には思いの外口からスルスルと言葉が出て来たのには自分でもちょっと驚いた。 「えっと、亜美ちゃん、じゃあ、今晩暇だよね!? じゃあさ、これから二人で誕生日パーティしよう!」 「え?」 ――ふたりでパーティー。 亜美ちゃんだって突然で困るかな? どーしよ……。亜美ちゃんもちょっと困ってるみたいな顔してるし。 「あ……。た、お誕生日会は週末するってうさぎちゃんが……」 突然のまことの発言にも関わらず、冷静な返答を返す亜美。 でも冷静なのは外見だけで、内心は驚きと嬉しさとでドキドキしていた。ポーカーフェイスなのはいつの間にか身に付けてしまった処世術――というより自分を傷つけない為の護身術みたいなもので――だから、こんな時どんな表情をしていいかも分からなかったのだ。 ただただまことの顔を見上げる。 彼女の顔はランニングをしていた所為で紅潮していて、……でも少しだけ困り顔みたい。無理して言ってくれているのだろうか? そう思っていたらまことが一気に捲し立ててきた。 「週末はパ――っとみんなで騒いでお祝いすんの! でも本当は今日が亜美ちゃんの誕生日なんだから、今日お祝い出来たらいいじゃないか! ね、しよう! あたしも――家に帰ったって一人なんだよ」 ――ね。 「…………」 正直、本当に嬉しかったのだが、こんな突然の誘いに不馴れな自分は、何て言って返せばいいのか分からなくて、思わずまことの顔を覗き込んでしまうしかなくて。 そうしていたらまことも(何故か)ますます赤い顔をして、返事を待っているようで。 「だめ?」 ――と、まことは断られたらどうしようとほんの少しだけ不安に思いながらも、期待を込めて彼女の反応を伺った。……だめって言われても引き下がる気なんかどこかへ吹っ飛んでいたけど。 亜美ちゃんの寂しさは、あたしが一番よく分かっている。 誕生日にひとりになんてしておけない。 うんにゃ、むしろあたしが亜美ちゃんを祝ってあげたいんだ。亜美ちゃんの為にパーティーをしてあげるんじゃなくて、あたしが亜美ちゃんをお祝いしてあげたいから。 そう思ったら、善は急げでまことは亜美の腕を掴んでいた。 ――やばい。汗で手が濡れてるんだった……! 「いきなりごめん。でも、もう8時だし、あたしもランニングした後だからシャワーぐらい浴びないと……。ごめんね、あたし汗くさいかも――。でもだから時間もないしさ。悪いけどちょっとあたしの家に寄って貰えるかな。それから亜美ちゃん家行ってパーティーしようよ」 「え、あ。だ、大丈夫……」 「へ? 大丈夫って――何が?」 「あ、汗……。まこちゃんのなら、気にならないし……全然」 「え、あ、そ、そう?」 そう言われてしまうと、逆に今更手が放せなくなってしまう。繋いだ手を意識してしまって、女の子同士だってのに、ちょっとドキドキしてしまう。 それに、何だって? ――まこちゃんのなら、気にならない!? それってどーゆー意味なのさ。いや、別に深い意味はないか。友達だからって事だよな、うんうん。 ん――でもやっぱり汗かいてるのに手を繋いでいるのは、やっぱり亜美ちゃんに悪いよなあ……。 そう思って後ろでなすがままに手を引かれている亜美をちらりと見ると、少し驚いているようではあるが、嫌がっている風はない。むしろ手を握り返してくれたりして。 ――手が、熱い。 まことは正面に向き直ると、俯いたまま早足で歩いた。 ◆ ◆ 「ごめん、思ったより長くかかっちゃって!」「もっとゆっくりシャワー浴びてくれて良かったのに」 「いや、あんまり亜美ちゃん待たせちゃ悪いからさ! じゃ、行こう。――ってちょっと待って、ウチから材料持って行けるもの、持っていかなくっちゃ!」 亜美は目を瞬(しばたた)いて、まことが一人右往左往しているのを眺めていた。 冷蔵庫を開けたり閉めたり、大きな紙袋を探し出したり、他にもあれやこれや持ち出すつもりのようだ。 そんな彼女の姿を見ていると、自然と寂しい気持ちがどこかへ消えてしまって、嬉しくて楽しい気持ちで満たされてくるのだった。そして、先程とは違う穏やかな笑みが広がるのが自分でも分かった。 「慌てなくてもいいわよ」 「いや、だって! あ〜ロウソクロウソク!」 クスリと笑みがこぼれる。 「もう、そんなに色々準備してくれなくてもいいのよ? 私はお祝いしてくれるだけで嬉しいんだから。それに、まこちゃんが良ければまこちゃんの家でパーティする?」 「ッあ〜〜〜〜〜〜、そうか! そうか、そうだよね!」 まことは突然足を止めたかと思うと、大袈裟に「納得、納得!」というように開いた左手に右手の拳を打ち付けた。 「何も無理に亜美ちゃん家でする事もないのか! あ〜あたしはてっきり亜美ちゃん家でするもんだとばっかり――あ、でも帰りが遅くなっちゃうけど大丈夫? 勿論送って行くけどさ」 まことはダイニングテーブルの前でくるりと振り向くと、亜美の返事を待った。 しかし質問された亜美は何故か黙り込んでしまい、やがて肩を落として俯いてしまった。 「亜美ちゃん……?」 「…………」 亜美は俯いて口元に手を当てたまま、何を考え込んでいるのか、そのまま固まってしまった。 それからしばらくして、彼女はダイニングチェアで所在なく身じろぎをすると、ようやくちょっと躊躇いがちに質問に質問で返して来たのだった。 「あの、まこちゃんが良ければ……」 「うん?」 「まこちゃんが良ければでいいんだけれど、あの、ここに……泊まってもいい、かしら?」 「――!」 「あ! だ、だめならいいの、ちゃんと帰るから! ごめんなさい、変な事聞いちゃって……!」 まことがすぐにうんと言わなかったので、亜美は必死に言葉を打ち消そうとして、赤い顔の前でぶんぶん腕を振った。耳までが赤い。 慌ててまことは否定する。 「ああ、違う違う。そんな事ぐらい別に構わないよ。いいよ。泊まっていってよ。でも、お泊まり決定はいいとして、どっちにせよモタモタしてらんないからね! スーパー行ってある程度材料は調達して来ないとね! ホラ!」 またしてもまことは半ば強引に亜美の手を掴むと、玄関へと連れ出した。 「遅くまで開いてるスーパーがあるんだよ。とっとと行ってきちゃお!」 まことは玄関まで来ると、くるりと振り向いて亜美に笑顔を向けた。つられるように亜美も微笑み返す。 ――良かった。 今晩はずっと一緒にいてくれる人がいて。 ……まこちゃんがいてくれて。 ◆ ◆ 「これで、オードブルの材料はよしっと。後は……ケーキだよね。さすがにケーキまで焼いてる時間はないしねえ。……あ、確か家にホットケーキミックスならあったと思うけど……、さすがにホットケーキじゃあんまりか……」――ねえ? まことがそう言いかけると、きょとんとした表情の亜美がこちらを見上げて何か言いた気に目を覗き込んで来た。 「え? 何? あたし変な事言ったかい?」 「……ううん、まこちゃんでもホットケーキなんて作るんだな、と思ったものだから……。まこちゃんならもっとすごいお菓子が作れるからホットケーキなんて、ちょっと驚いちゃった」 「え? 嫌だなあ。あたしだってホットケーキぐらい作るよ」 ……まいったなあ。 亜美が真顔でそんな事言うものだから、まことは頭を掻いて照れながら打ち明けた。 「実はさ、ホットケーキ好きなんだよ、あたし。あんまり子供じみててあんまり人には言えないんだけど。……ちっちゃい時にお母さんがよく作ってくれてさ。別になんて事はないフツーの、アツアツのホットケーキの上にバターとメープルシロップかけて、さ……。大好物なんだ、ホントは」 あはは、なんて照れ笑いするまことの腕を思わずがっちり掴むと、亜美はちょっと興奮しながら言った。 「わ、私もなの!」 「え?」 「ホットケーキ! 私も小さい頃よく母に作って貰って、好きなの。今はもう食べなくなっちゃったけど、好きだったの、すごく!」 「ほ、ホントかい?」 ぶんぶんと首を縦に振る亜美の勢いに少しばかり気押されながらも、まことは嬉しくなって亜美の手を握り返して言った。 「すごい! じゃあじゃあ、やっぱりホットケーキにしよう!」 「バターとメープルシロップかけて!」 「勿論!」 ――亜美もまことも嬉しくってドキドキした。 二人してきゃあきゃあ盛り上がりながら、レジへと向かった。 フライパンじゃなくて、ホットプレートを囲んで二人で焼こうとか、実は最近一人で作って食べ過ぎてトイレにこもっていたとか言うまことの話とか、初めて焼いた時は母も慣れてなくて生焼けだった亜美の話とか……。とにかく色々話した。 会計(レジ)を終えても話は尽きなくて。 普段皆でいる時はあまりした事がない、プライベートな小さな話を幾つもした。 窓辺に置いてあるサボテンのこと、いつも使っている文房具に実はこだわりがあること、昨日お気に入りのカップを割ってしまったこと、お風呂で転びそうになったこと、今日出された宿題のこと……。 しかし宿題の話になった途端亜美の表情が厳しくなって、睨むようにまことを見上げて来た。 「もう、宿題は直ぐにちゃんとやらなくちゃだめよ、まこちゃん」 「いや、だって提出は明後日だもん。別に今日じゃなくても――」 「だ〜め。パーティー終わったらやるわよ」 「え〜〜〜! た〜んじょ〜びなのに〜〜〜〜い! 折角亜美ちゃんがお泊まりなのに〜〜〜〜い!」 「!」 亜美はまことの何気ない言葉に声を詰まらせると、くるりと後ろを向いて駆け出した。赤い顔を見られないように。 ――折角亜美ちゃんがお泊まりなのに、だって。 「あ、亜美ちゃん?」 「は、早く帰りましょ! 私がちゃんと一晩中でも宿題みてあげるから!」 「え〜〜〜〜〜〜〜〜〜!」 そんなあ…… ぼやくまことの声が少し遠くなる。 しかし直ぐに足音が近付いて来るのが分かって、でも振り向かないで。 まことが腕を掴んで来るのを待つ。 「――掴まえた!」 思ったよりずっと近くでまことの声が聞こえて、驚いたけれど、それよりもずっと強く安心感が沸き上がる。掴まれた手首が少し、熱い。 「ね、宿題はちゃんと明日学校が終わってからするから、今日は色々話そうよ。折角ふたりでお泊まりなんだしさ?」 背の高いまことが無理をしてわざわざ亜美の顔を覗き込むから、亜美は吹き出しながらちょっと逃げてみる。 「どうしようかしら? ちゃんと約束してくれる?」 「うん、絶対! ね、だからさ!」 まことがぐい、と亜美の手を引く。 「ふふふ。じゃあ、いいわよ」 「やった〜!」 言った途端、いきなりまことが駆け出した。 突然のダッシュに手を引かれ、買い物袋が揺れて悲鳴を上げる。 「あ、まこちゃん、卵、卵!」 「あ〜〜〜〜、しまった!」 亜美は然も呆れたように溜息をついて、小さな子供を諌めるような声でまことを叱った。 「もう、すぐ調子に乗るんだから!」 「ごめん……。でも、ホラ、卵は無事だったし、いいじゃないか! ね!」 眉根を寄せて、八の字に垂れ下がった気弱な眉の割りには、全然悪びれもしていない瞳を亜美へと向け、まことは微笑んだ。 「もう……!」 そんな屈託のない表情を見ているとこちらまで頬が弛んできてしまい、亜美は相好を崩しながら得意のフレーズをまことへと投げ掛けた。 「まこちゃん、水でも被って反省しなさい!」 「うわ、そう来たか! ……あ〜〜、じゃあ、あたしは亜美ちゃんがしびれちゃうくらい美味しい料理を作らないとね!」 「後悔しないわよ!」 「いや、するする! 食べ過ぎで後悔させちゃうから!」 「もう、まこちゃんってば……!」 まことはくるりと振り向いて亜美の前に立つと、小さな声で呟いた。 HAPPY BIRTHDAY TO YOU! ――15歳おめでとう、亜美ちゃん! fin. |
POSTSCRIPT |