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ほぼ毎日聞いている予備校の終業チャイムが鳴り響き、歳若い講師が数学のテキストを持って教室を出て行くのを横目で見遣ると、視界の端に不思議そうな表情を浮かべて覗き込んで来るクラスメートの顔が写って、ふと手を止めた。
何かと思って亜美が声を掛けるよりも早く、先に声を掛けられた。 「水野さん、制服のリボンどうしたの?」 言われて、亜美は十番高校の制服の胸元に手を当てた。セーラーカラーの下にある筈の赤いリボンはそこにはない。 リボンのないセーラー服のアンバランスさに違和感を感じたのだろう。何気ない質問ではあったが無視する訳にもいかず急ぎながら、さて何と答えたらいいかしら、と素早く思考を巡らせた。 「えっと、ここへ来る途中でちょっと汚しちゃったから……、外しているの」 「ふうん」 クラスメートはちょっとした疑問が解けて納得したのか、さして気にも留めずに「じゃあ、また明日ね」と言葉を掛けて去っていく。 その後ろ姿を忙し無い気持ちで見送って、それほど深く追求されなかった事に安堵の溜息をついて、亜美は手早くテキストとノートを鞄に仕舞った。そうしながらも、自分の頬が徐々に染まって行くのが分かった。 スカーフの無い理由を問われ、自ずと2時間程前の事を思い出して、やり場のない感情にこっそりと溜息をついた。 事の原因のその人の名を呟く。 ……まこちゃんってば、もう。 「さて、急いで帰らなくちゃね」 赤い顔で俯いたまま鞄の留め金を掛けて、席を立つ。 そうしながら自分の言葉に間違いを見つけて、苦笑した。 ……本当は「帰る」んじゃなくて、「行く」の間違いよね。私の家に戻るんじゃなくて、まこちゃんの家に行くんだから。 そう思い直して、自分とまこととの関係の今ある姿を改めて見つめ直すと、嬉しいような恥ずかしいような、――そして、幸せなような気がした。こんな時に不謹慎だとは思ったが。 亜美はリボンのない胸に手を当て、大切な名を、そっと小さく呟いた。 ……まこちゃん。 そして駆け足で教室を飛び出した。 早く、帰ろう。 ◆ ◆ ――亜美が予備校での授業を終える2時間程前。まことは自室のベッドの上で、非常にだるくて重い身体を持て余し、寝返りも打てずに悶々としていた。 だるい。 節々が痛い。 だるい。 節々が痛い―― この所、殆ど味わう事のなかった風邪の症状は、午前中ベッドの中で思っていたよりもずっと重くなり、日が傾いてからは更に酷くなった。起き上がってカーテンを引くのも億劫で、結局カーテンに手も伸ばせずにそのままにしておくしかなかった。 その内に、カーテンなんかどうでも良くなってしまう程の苦痛に意識が遠くなり、されど眠る事も出来なくて、ベッドの中で苦痛を苦悶の声に変えるしか出来なくなった。 何分か、何時間か、そもそも時間なんか流れてるのだろうかといぶかしみながら、時間が経つのを待つ。やがて風邪の症状が和らいでくれるのを待ちながら。 その時。意識の片隅で何かの物音を聞いた。玄関チャイムのようだった。 でもそんな事もどうでもよくってそのまま無視していると、また別の音がした。 ――カチャリ、ギイ。 ドアの開く音だと判別は出来た。 やがて静かに床を踏む音が近付いてくる。 不思議と恐怖心は湧かない。 首だけを部屋のドアの方に向けて、待った。 「まこちゃん、具合、大丈夫?」 やっぱりだ、と予想した通りの姿を見て、安心感と嬉しさが込み上げる。声を掛けたいが、辛くて止めた。 「ごめんなさい。合鍵で勝手に上がっちゃって……。まこちゃん起こすのは悪いと思ったから」 「いいよ。亜美ちゃん」 掠れた声でそう答えるのが精一杯だった。 「学校で、まこちゃんのクラスに行ったら風邪でお休みだって聞いて、お昼に電話掛けても通じなかったから、具合が酷いのかと思って来てみたの。……良かったわ、来てみて。大分、つらい?」 まことは浅く二度頷く。 亜美は大きな荷物を床に置いて、まことの額に手を当てる。やはり熱が高い。 「……熱と、あとすごくだるいのと節々が、痛い。……風邪だとは思うんだけど……。この間の、亜美ちゃんの風邪が移ったのかな」 はは、と弱々しく微笑む。 「……あんな事したから、かな?」 その言葉に亜美の頬が瞬時に火照る。 「――もう!」 一昨日まで風邪をひいて臥せっていたのは亜美の方で、看病をしてくれたのはまことだった。一昨々日(さきおととい)まことの部屋へ遊びに来たのはいいが、元々体調が良く無いのを感じていたのもあって、案の定その夜から体調を崩してしまい、結局この部屋に泊めてもらい、翌日も看病をしてもらった。 看病されるだけならいいが、それ程症状は重く無かったから、そのまままこととベッドで――――。 「………………」 亜美はその時の事を思い出し、顔を赤らめて、非難の目をまことに向けた。 「もう、これからは絶対ああいうの、なし、よ。絶対」 「……絶対?」 「当たり前でしょ!」 勤めて怒った素振りで睨むのだが、我ながら説得力がないな、と自覚する。 結局はまことにはバレているのだ、そんなに怒っている訳ではない事も。怒っているのは振りだけでただの照れ隠しだという事も、みんな。 第一怒っているのであれば、あの時に怒るべきなのだ。――あの最中(とき)、ああいった「反応」をしてしておいて、その後で怒る怒らないもないが。 「でもさ、あたしに移したから亜美ちゃんの風邪治ったんだよ?」 「あの時、いつまでも薄着でいたから、風邪をひいたのよ」 言って、精一杯睨む。 「……まあ、そうかも知れないけどさ」 確かにあの日は薄着で――というか一糸纏わぬ姿で――ベッドの中で小一時間程過ごしていたのだが。 それでも亜美を気遣って、直ぐに亜美にはパジャマを着せ、まこと自身も服を着た。それに季節は夏だし、布団を被っていたし、あの程度で風邪を引くとは思えない。――やっぱり亜美の風邪を移されたのだ。 それにそう思った方が、ずっといい。 「……いいじゃない。それに亜美ちゃんの風邪だって思った方が、つらく感じないよ」 「……もう」 つらい癖に、すぐそういう事言うんだから。 呆れながらも、亜美は結局はまことのそういう所に弱いのだと降参してしまう。胸の奥が自然とまことを愛しいと感じる。 「ね、もう一度、手貸して?」 言われて亜美がまことの頬に手を当てると、まことは目を瞑って元々体温の低い亜美の手の感触を感じた。少し冷たくて、気持ちよかった。 それにこうしていると、苦痛が和らぐ気がする。 「……しばらく、そうしててくれる?」 「ん……」 どれくらいそうしていただろうか。言われたようにしばらくそのままでいたが、不意にまことが目を開いて亜美を見上げた。 「あ、亜美ちゃん、予備校行かないと」 少し不安そうな、そして悲しそうな表情を浮かべているのは、風邪の苦痛の所為だけではない筈だ。 亜美は微笑んで、優しくまことに言った。 「いいの。そんな事心配しないで、ね?」 「でも」 「大丈夫よ。お勉強より、まこちゃんの方が大事だもの」 「…………」 まことは黙ったまま亜美を見つめて、悲しそうに眉を顰めた。 ゆっくりと手を布団から出し、亜美の手に自分の手を重ねる。そしてその手を亜美に向かって押し戻した。 「……あたしは大丈夫だよ。寝ていれば平気だから。だから予備校に行って来てよ。……それで……、ここへ戻って来てよ……。ね?」 まことはベッドの下に置かれた筈の、亜美の大きな荷物の方を見た。――恐らくここへ泊まる準備の為に大きく膨らんだ、バッグ。 「だから、行って来てよ」 「……まこちゃん」 亜美は押し戻された手を、布団越しのまことの胸に当てた。そして優しく撫でる。 まことが微笑んで、背中を押すように小さく頷いた。 亜美は思う。このままではまことは亜美を気遣って、気持ちが休まらないかもしれない。 万一の為にそばにいてあげたいが、まことがそれを望んでいない。 ……どうしたらいいのだろう? 「ね、じゃあ、ひとつだけお願いいいかな?」 「お願い?」 まことはこくりと頷いて言った。 「亜美ちゃんの制服のリボン、置いていってよ。枕元に。そうしたら亜美ちゃんが近くにいてくれるみたいで、安心して眠れるから……」 ――ね? 思いもよらないお願いに、そんな事でいいのかしら、と不安に感じながらも、セーラーの下のスナップを外しリボンを取る。 そして枕の上のまことの顔のすぐ横にそれを置く。 「いいの? こんなので?」 「いいの。亜美ちゃんのにおいがして、……すごく安心する」 まことは頭を少しずらし、リボンに擦り寄る。その表情はとても穏やかで……。 その姿を見て亜美も少し安心する。 「……本当に大丈夫?」 「うん。……じゃあ、あたし眠るから……。勉強、頑張って来てね」 「ありがとう、まこちゃん」 「うん。じゃあ、お休み」 ……お休みなさい、と亜美は小さな声で囁いた。 やがて立ち上がって、学制鞄を取り上げる。 まことは穏やかな顔をして、そして目を開けずに右手を少し布団から出して、亜美のリボンの端を握った。 ――腕時計に視線を落とすと、塾はもう始まってしまっている時間だったが、まことの為にも早く行って来よう。思いっきり勉強して、そして。 ……まこちゃんの為に早く帰って来よう。 この家へ。 fin. |
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