週末のお嫁さん。 |
ボタンを押して、上を向いた三角形の矢印が光るのを見つめる。マンションのエレベーターが降りて来る1分程の時間ですら立っているのがだるく感じる程、疲れていた。階を示す数字が点灯してエレベーターが止まる度に溜息をこぼす。
ようやく開いた扉の中に足を踏み入れ、慣れた手付きで見慣れた数字を押して待つ。程なくして扉が開き、頼り無い蛍光灯が照らし出すエレベーターホールが視界に広がった。見慣れた景色にほんの少し、元気が出たような気がする。 このまま行けば彼女が待っているのだと思うと、自然と疲れも気にならなくなってしまうのだから、現金なものだ。 疲れている筈なのに勝手に小走りしてしまう脚。少し落ち着きをなくし始めている鼓動。こっそり上がる口端。 彼女の部屋は、もう、すぐそこ。 ◆ ◆ ――ピンポーン。インターホンを鳴らして少しだけ待つ。 その間に前髪を整え、後ろ髪に手櫛を通す。 なんとか大丈夫かも、と思って右手を下ろした瞬間、玄関のドアが開いた。 「お帰り、亜美ちゃん!」 「た、ただいま、まこちゃん」 「もう、鍵渡してあるんだから、使ってくれていいんだからね」 「あ……ごめんなさい。わかってはいるんだけど……」 まことがドアを押し開き、開けた隙間から亜美がするりと入り込む。見上げるとまことが苦笑して、いいんだけどね、と呟いた。 「でも折角渡したんだから、使ってもらった方がいいんだけどな」 「ごめんなさい。でも……」 「ん?」 「その……」 「?」 亜美が言葉を濁すのを、まことがクエスチョンマークを浮かべた顔で促す。 亜美は尚も言い淀みながら、まことの顔色を窺うように遠慮がちに呟いた。 「まこちゃんに、おかえりって言って貰いながら、開けて欲しかったから……」 亜美の照れたような困ったような仕種を見て、自然とまことの頬が緩む。 「……亜美ちゃん……」 見上げた亜美と視線が合い、まことは微笑みながら亜美に呟いた。 「亜美ちゃん……おかえりなさい」 そして亜美もちょっと照れながら、もう一度小さな声で繰り返した。 「ただいま」 まことははにかんだ亜美の笑顔を見て、ふふふと微笑むと、さて、と言いながら玄関のドアを閉めた。 「亜美ちゃん、ごはんにする? それともお風呂にする?」 数年前のホームドラマの新妻が発するような発言を聞き、亜美はくすりと笑ってしまう。 「なあに? それ?」 「ほら、新婚さんっぽいだろ、こういうの」 ――やっぱり。 何を意図しての言葉か見事に適中して、やっぱり笑いが込み上げてしまう。 「どっちがいい? ごはん? お風呂?」 まことはウキウキしながら問いかけてくる。さぞかしこういうやりとりをしてみたかったのだろう。 「ん――、まこちゃんもお腹すいてるでしょ? ごはんにするわ」 「いや、あたしの事は気にしなくていいんだよ。疲れてるんだろ? お風呂、先に入って来たっていいんだよ」 「ううん。私もお腹、すいてるの。早く可愛いお嫁さんの作ってくれたお夕飯が食べたいわ」 「――!」 「あ……」 ……やだ、私ったら……。 途端に亜美は手を口に当て俯いてしまい、まことは耳迄真っ赤にして俯いている亜美を見て、ぽかんと口を開けて立ち尽くした。 ――お嫁さん? お、およ、お嫁、さん……? 亜美は立ち尽くすまことの前で同じく立ち尽くし、我ながら、なんておかしな事を言ってしまったのだと、既に後悔し始めていた。 「あ、あの……」 「あ……亜美ちゃん……。お嫁さん、って……なんかいいね。なんか……すごく嬉しいや」 「まこちゃん……」 見上げるとまことは照れくさそうにはにかみながら、でも、嬉しそうに微笑んでいた。 亜美はその笑顔を見て尚の事恥ずかしくなってしまい、またしても俯いてしまう。 「亜美ちゃん……」 まことが亜美の腕に手を添えると、ゆるゆると亜美は顔を上げた。 まことが少し背を屈めると同時に、亜美が背伸びをする。そして、軽いキスを交わす。 「……亜美ちゃん……。あたし、いいお嫁さんになるよ。亜美ちゃんの為にごはん作ったり掃除したり洗濯したり」 「……じゃあ、私はいいお婿さん?」 そう言われてまことはちょっと首を傾げる。亜美ちゃんが、お婿さん? ……ちょっと違う気もする。 「亜美ちゃんも、あたしのお嫁さんだよ。可愛い可愛いお嫁さん」 繰り返される単語にくすぐったさを感じながらも、そう恥ずかし気もなく言ってくれるまことに、これ以上ないというくらいの安心感を感じる。 「……ありがとう」 そして小さな声で、呟いた。 だいすき、まこちゃん。 ◆ ◆ 「そっか。じゃあ、またしばらく会えなくなっちゃうね」ベッドの上で寝そべって枕を抱えながら、まことは寂し気にそう口にした。 両手で抱えた枕の縁を弄びながら、ただ黙って枕を見つめる瞳はやっぱり寂しそうで、罪悪感が亜美の心に広がる。 「ごめんなさい」 「ん、亜美ちゃんがお医者さんになる為だもん。勉強、頑張ってよ」 ――ね。 言って、まことは隣に寝ている亜美の方へとごろりと寝返りを打つと、なるべく気負わないよう気を付けて微笑んだ。 「……ありがとう」 大学に進学してからの亜美は忙しい。授業、ゼミ、特別講習、実習……様々な名前の障害が二人の間に立ちはだかる。その上どこぞの大学病院だとかラボだか、そういう所から研究会に参加しないかとか誘われているらしい。……よく分からないけど。自分には雲の上の話でちんぷんかんぷんだから。 でも忙しくなる事は亜美が大学に行く前から分かっていた事だ。会える時間が減って寂しいからと、わがままを言って彼女の負担にはなりたくない。 ……本当は、もっといっぱい一緒にいたんだけど。 ちらりと亜美を見遣ると、枕に頭を預けた彼女が見上げるように、少しとろりとした目でこちらを見ていた。 「まこちゃんは? お仕事、順調?」 「あ、あたし? 結構重労働でさ。もう毎日クタクタだよ」 そう言いながら、寝ながら器用に首を回してみせる。 「でも、まこちゃん最近すごく活き活きしてるわ」 「そうかい? まあ、念願のフラワーアレンジメントの仕事だからね。あ〜早く一人前になって自分の事務所が欲し〜〜い!」 大きく万歳をしながら伸びをする。するとベッドから腕がはみ出し、壁に手がぶつかる。 「アイテ」 そんなまことの姿を見て、亜美はくすくす笑みをこぼす。ついでに欠伸もこぼれてしまう。 「気を付けて。大事な手なんだから、ね」 「まあね。怪我なんてしちゃったら、亜美ちゃんとこんなことも出来ないからね」 まことは布団の中へ腕を潜らせると、素早く右手で亜美の腰を引き寄せた。 「きゃ」 腰に触れられるくすぐったさに、思わず亜美が悲鳴を上げる。 「亜美ちゃんって、抱っこしてると気持ちいいや」 犬のように摺り寄って来るまことの髪が頬に触れて、亜美はちょっと身を捩(よじ)る。するとまことも身体を動かして亜美の隙をついて左腕を身体の下へ回すと、すっぽりと彼女を抱きかかえてしまった。 仰向けになったまことの上に、掬い上げられるように、うつ伏せに乗せられる亜美。 動いた所為で捲れ上がったパジャマの上着が心許ない。 「ま……」 「…………」 亜美を見つめたまま、まことの腕だけが布団の中でゆっくりと動く。どうしよう、と迷っている間に、あっさりと彼女の手が進入してくる。 外気に触れていた手が、冷たい。思わず息を飲む。 数度まばたく間にも手はゆっくりと背を這い上がり、背骨のラインを辿る。 「やっぱり、お嫁さんなら……ね?」 「ん……」 気怠い、くぐもった声が喉からこぼれ出る。 まことは空いた左腕を亜美の髪に手を差し入れると、首筋をなぞり、そして柔らかな耳朶(みみたぶ)に触れた。亜美が少し眉を顰(ひそ)める。 今迄少し力んでいた彼女の肩の力が抜けるのが、まことの手に伝わる。 ゆっくりと降りて来る亜美のつややかな唇。 まことは亜美の唇を受け止めようと首を傾げ、頤(おとがい)を上向けた。 瞳を閉じる。 ――亜美ちゃん……。 久々の肌の触れ合いに、自然と鼓動が速まっていく。 このところゆっくりと会える時間も取れなかったし“御無沙汰”だったものだから、こうしてゆっくりと亜美と互いを感じ合えるのが、ただただ嬉しかった。 やがて――、 亜美の顔がまことの頬を掠め、肩口にこつりとぶつかった。 「へ?」 思わぬ亜美の行動に、間の抜けた声が出る。 亜美を見遣ると、意識を失い完全に沈み込んでいた。ずしりと体重がのしかかる。 ……ね、寝てる……。 「あ、亜美ちゃ〜ん。そりゃないよ〜」 全身から力が抜けて、まことの頭が枕に沈み込む。 「ほ、ほんとに寝ちゃったの? この状態で?」 ぐったりしている亜美に問いかけても、寝息の応えが返って来るだけで、ぴくりとも動かない。 「…………そんなぁ……」 「く――――――……」 寝息の返事の替わりに、まことは溜息をついて、両手を布団の上に放り出した。 亜美は穏やかな寝息を立てて、ぐっすりと眠り込んでいる。 その寝顔は穏やかで。 ……まあ、疲れてたみたいだしな。仕方ないか……。 独り苦笑して、そっと亜美の頭を撫でてやる。 こうしてみると、すっかり身体を預けている亜美の体重が心地よくて、なんだかそれが気持ちよくなってくる。 ……………。 ……ま、いいか。 亜美の寝息が首筋に当って気持ちがいい。 まことは亜美を抱きかかえたまま、しばらくそうしていた。 カッチコッチカッチコッチ。リズム良く時計が囁き、眠りを誘う。 ――亜美ちゃん、明日は覚悟してよね……。 そう思いながら、 いつしかまことも眠りに落ちていた。 fin. |
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