夏の予感 |
「暑いね〜」
然して苦でもないようにのんびりと彼女が言う。汗を拭うでもなく手で首筋を扇ぐでもなく、のんびりと。そして熱された白いアスファルトをぼんやりと目を細めて眺めて呟く。 「もうすっかり夏だね」 何かを意図したという事もない無い気ない言葉に、そうね、とだけ私は応え、右手に持った学生鞄を左手に持ち変える。 特にこれといった話題を口に上らせる事もせず、無言でしばらく歩く。茹だるような暑さではあるけれど不思議と不快ではなくて、寧ろ夏という季節をいよいよ感じられる時期を迎え、少し浮き立つような高揚感を感じていた。 ただそれは決して初夏の熱気の所為だけではなくて。――終業式を終え、遂に迎えた夏休みに少なからず昂揚しているのだ。彼女も、――そして私も。夏の長期休暇にあれやこれやと期待が膨らむ。 ただ、いつもなら学校を出た途端に「夏休みモード」にスイッチの切り替わる筈の彼女が今日に限っては少しばかり大人しくて。かと言ってそれを問うでもなく、私も静かに口を閉じたまま隣で家路を辿る。もしかしたら、他の友人らと違い取り立てて騒ぎ立てない私を気遣って大人しくしているのか、他に理由があるのか。 どちらにせよ、何故かこの少し浮き足立つ気持ちと気怠るい空気を彼女とふたりきりで共有するのはそれだけでどこか楽しかった。 いつものメンバーで騒ぐのも勿論楽しくはあるが、たまにはこういった緩やかな時間を過ごすのも悪くはない。私は元来大勢で集まって大騒ぎするような性質を今一つ持ち合わせてはいなかったし、寧ろ一人きりで自分だけの時間に没頭しているのが好ましかったから、静かに時間をやり過ごすだけのこういった空気感は嫌いではないのだが、彼女はどうなのだろう。――少し、気にならなくはない。 彼女の表情を窺ってみようかとも思うが、何故か躊躇われる。 もう少し、このままでもいいような、それを彼女が望んでいてくれるような、願望にも似た安心感があった。 「あ」 彼女が先に気付き、そして二人して吹き出してしまう。 前方からランドセルを背負った小学校低学年の男の子が歩いて来たのだが、まるで荷物に背負わされているかのように大荷物なのだ。こんな学期末によく見掛ける光景。学期終了迄に毎日少量ずつ荷物を持ち帰る事が出来ず、結局最終日に大量の荷物を持って帰らざるを得ない児童。 ひょろひょろに蔓の伸びた朝顔の鉢を抱え、手には手作りらしいキルティング素材のトートバッグに目一杯荷物を詰め込み、おまけにランドセルの隙間からは様々な物が突き出ていた。アンバランスな荷重のお陰でよたよたしながら、懸命に一歩ずつ歩いている。 「ふふふ」 彼等には失礼だが、とても微笑ましく思ってしまう。家に辿り着く迄に、あと幾人見掛けるだろう。 隣からは、彼女の笑い声も聞こえている。 タイミングを測ったかのように同時に顔を見合わせる。思わぬ偶然に、それだけで――それだけの事で、また少し気分が浮かれる。こんな小さな事で。……何故だか分からないけど。 「あはは、可愛いね。なんか自分が小さかった頃を思い出しちゃうよ」 「そうね」 自分が幼かった頃も、同じように沢山の大荷物を背負った級友達がいた。 「あんな風に大荷物背負って帰ったなあ」 「あんな風にしている子達がいっぱいいたわね」 同時に言って、再び顔を見合わせる。 そして同時に吹き出す。 「いやだなあ、亜美ちゃんってばああいうの――」 そう言い掛け、――した事なんてないか、と冗談めかしてがっくりと肩を落とす。 「まこちゃんもしてたの? あんな風に荷物沢山持って帰ったの?」 「そりゃ、大概の子はやってるだろ? 別に珍しい事じゃないよ。朝顔とか道具箱とか教科書とか、……後、図工で描いた絵とか習字とかさ。もうすっごい量でさ。ああなる事分かってるのに、前もって持って帰れないんだよね〜」 うんうんと一人頷く彼女の言う感覚が今一つ理解出来なくて疑問を返す。 「ふうん。どうして出来ないの?」 「どうしてって……。逆にどうして出来るのさ! こっちが聞きたいよ!」 いきり立つ彼女が眉間に皺を寄せ、顔を近付ける。私は反射的に半歩下がった。 「え……。どうもこうも、ちょっとずつ事前に持って帰るだけでしょ? 何か難しい事ってある?」 彼女が足を止めて口をあんぐりと開けて私を見下ろす。私も足を止め、彼女を見上げる。――何かおかしな事言ったかしら? 「亜美ちゃん」 「はい?」 彼女は鞄を持つ手とは反対の空いた左手を私の肩に掛ける。私は突然の事に驚いて、少し声を上擦らせてしまう。彼女が近い。 そして私の動揺には気付かずに、彼女がしみじみと言う。 「亜美ちゃん。ちっちゃい頃からしっかりしてたんだね……」 「確りだなんて……、普通の事じゃないかしら?」 「h………。なんだかあたしとは別次元にいる気がするよ」 するりと彼女の手が落ちる。 ――あ、 何故だかほんの少し寂しい気になる。横目で彼女の手を追うが、直ぐに視線を逸らす。慌てて歩き出す。 「ほら。行きましょ。ぼんやり立っていると熱中症になるわよ」 「はーい」 彼女が小走りに駆けて来て直ぐに追い付く。――小走りというよりは数歩大股で歩いただけど。やはりコンパスの差は否めない。 ちらりと彼女を見上げる。 「ん? 何?」 「な、なんでもないわ……」 何も後ろめたい事なんてない筈なのに、思わず目を逸らしてしまう。……何も後ろめたい事なんてないのに、平静な精神状態でいられない。胸の辺りが窮屈に感じる。 ふうん、と曖昧な返事を返し、追求するでもなく彼女が前方へ足を進めるのにほっと息を吐(つ)いて、後に従う。少し動悸がする。拳を胸に当て、動悸を鎮めようと軽く深呼吸してみるが、収まりはしない。 仕方無しに動悸を鎮める努力は取り敢えず放棄して、何となく先程の彼女の言葉を反芻してみる。――亜美ちゃん。ちっちゃい頃からしっかりしてたんだね。 そうかしら? 恐らく、級友達が大量の荷物を持ち帰る効率の悪さに疑問を感じる事はあっても、自分の行いが特にしっかりしていた、という意識はなかったように思う。かといって効率非効率ばかりを考えて生活していた訳でもないように思う。私としては、それがごく自然な行為だったから。その日の授業を終えたら教科書は全て持ち帰り、机の中には最低限の鋏、糊などの常備品のみしか残さない。それが当たり前で誰しもがそのようにしていると思ったが、……どうやらそうではないらしい。私の大事な友人の一人、否、寧ろなくてはならない大切な友人である月野うさぎその人などは、寧ろ持ち帰る事の方が少ないようだ。 ……おそらく、今、隣に立つ彼女もまた。 ちらりと再び彼女を見上げる。今度はこちらの視線には気付かない。ほっとして、また視線を前方に戻す。 ふと、幼い頃の彼女の姿を想像する。小さくて、でも朗らかで、多分やんちゃな彼女。幼い頃から身長は高めだった? 髪は今みたいに長かった? 同じようにポニーテールにしていたの? 服はどんな感じかしら。夏は何をして遊んでいた――? そう考えていた時、 不意に彼女が言った。 「ちっちゃい時の亜美ちゃんってどんなだった?」 ――驚いた。 「え?」 思わず返答に窮してしまった。 「可愛かったんだろうね」 どんな私を想像しているのか、微笑みながら彼女は私を見下ろした。 私は口もきけず、ただ彼女を見上げる。 ――まさか、私と同じ事を考えていたなんて。 「どうしたの、亜美ちゃん?」 「…………」 「びっくりした顔して」 余りに私が呆けているものだから、彼女の方が少し驚いた顔をしている。 「わ、私も」 「――ん?」 「私も同じ事を考えていたから、びっくりして」 「同じ事?」 「まこちゃんの小さい頃ってどんなだったかな、と思って……」 「ああ!」 漸く合点がいったという風に彼女が二、三度頷く。「そうだったんだ」――そう言って朗らかに笑う。 私は少し気恥ずかしくなって、俯きがちに歩く。彼女の言った言葉が鼓動を速める。 ――可愛かったんだろうね。 どうしてそんな風に思うのか。理由が分からず混乱してしまう。 「……亜美ちゃんの子供の頃って、可愛かったんだろうなあ」 小さな声で、またしても彼女が不可解な事を言う。顔が紅潮する。「やだ」思わずそう口にしてしまう。 「はは。あたしなんかは可愛くないやんちゃなガキんちょだったんだけどね。なんか亜美ちゃんは可愛いだろうなあって思ってさ」 そう言ってからかうように彼女が私の頭を撫でる。――その瞬間、心臓が口から飛び出すんじゃないかと思った。 「あ、あの。あ、あまりからかわないで!」 思わずそう言って逃げ出してしまう。 「あれ? 怒ったの? ……ごめん」 余りにも素直に謝るものだから、返って言葉が出て来ない。思わず足を速めて歩く。 「待ってよ、亜美ちゃん。ごめん。謝るよ!」 彼女の声が少し不安げに高くなる。私は何も言えない。やがてどうしようもなく罪悪感が込み上げ、私は振り向いて立ち止まった。すると困った顔の彼女がいて。 「あの……ごめん」 照れくさく手のやり場に困っているのか、指先で頬を掻いている。 「ごめんね?」――言って、腰を屈めてわざわざ私の目線に高さを合わせ、顔を覗き込んでくる。真ん丸の、疑いを知らない瞳で。 子供みたいだと思った。純粋で、素直で。――大きな子供。 「ぷ」 「!」 吹き出す私の顔を見て、途端に綻ぶ彼女の顔。 「あはははは」 所が私が怒りを収めるどころか――否、寧ろ怒ってすらいなかったのだけれど――大笑いし始めたものだから、彼女は驚いて豆鉄砲でも食らった鳩のような顔をしている。 「亜美ちゃん?」 「あはははは」 「どうしたの? なんで笑ってるのさ。あたし何かしたかい?」 ――ねえ、亜美ちゃん! しびれを切らした彼女が私の腕を掴む。 何故か、心臓が跳ねる。 彼女と至近距離で目が合う。見詰めあう。――何も言えない。 何故か、彼女も何も言わない。 余計にどんどん鼓動が速まる。顔が熱い。――これは、初夏の陽気の所為では……ない。 何かが頭の中で、何かを理解する。――何を? これは、何? 「……亜美ちゃ……」 私の態度を不審に思ってか彼女が口を開き掛ける。だが、結局彼女も言葉に詰まったようで、それ以上何も言わない。私の態度の不可解さに、彼女の柳眉が寄せられる。それを分かっていながら、私も何も言えなくて。 ただ、掴まれた腕が――熱い。 夏の………… 所為ではないのだと。 彼女の瞳を見詰めながら、彼女の瞳に見詰められながら、夏ではない熱に浮かされていた。 「亜美ちゃん、まこちゃ――――ん!」 よく聞き知った声が遠くから聞こえた。 「まだ、こんなトコにいたんだ――!」 私は彼女から視線を逸らし、彼女の腕が素早く離れて行く。 「うさぎちゃ――ん、ハルダのお説教も案外早かったねえ!」 彼女が、駆けて来る少女に向かって声を張り上げる。 私も顔を上げ、小さく手を振る。 多分、これから緩やかな時間はなくなり、お喋りに花が咲く事だろう。私はほっとしたような、少し残念なような、そんな気がしていた。 「暑いね〜!」 ようやく追い付いて来た少女がセーラー服の裾を掴んで激しく扇ぐ。手には大荷物だ。 私と彼女は顔を見合わせ、何事か理解出来ぬ少女を横目に、 ――大笑いした。 fin. |
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