そんな、真夏の昼下がり。


「きゃああッ」――

 ジジジジジジジ……

 一度茶葉を漉したポットから、予め氷を入れておいたグラスに紅茶――今日はアイスティー用に無難にセイロンだ――を注ぎ終えたその時、ベランダから唯ならぬ悲鳴が聞こえ、キッチンの主人(あるじ)は咄嗟に視線をベランダの方へと向けた。
 しかし、極短い悲鳴の直後に聞かれた怪音から、名探偵は現場へ行かずとも事件の概要を推理してしまった。
「……ふふふ」
 あっさりと謎の解けた探偵は慌てず騒がず、冷却された紅茶が白濁してしまわないように、素早くかき混ぜ、これまた予め用意しておいたレモンの輪切(スライス)を添える。そうしてから出来上がったグラス二つを持ってキッチンを出、ローテーブルにグラスを置いてから、現場――ベランダへと足を進めた。
「亜美ちゃん、アイスティー出来たよ」
 そう言いながら、被害者の美少女――亜美を見遣る。
 被害者は尻餅をついた格好のまま、現れた名探偵を見上げてその名を呼んだ。
「……まこちゃん……」
 そしてゆるゆると立ち上がり、ふうっと深い溜息をこぼす。
「お洗濯物が乾いてるかと思って取り込もうとしたら、Tシャツに蝉が止まっていて……」
「はは。いきなり飛び発ったから驚いた?」
「ええ……」
 亜美は相当驚いたのだろう、まだ少し緊張して強張った顔して、もう一度深い溜息を吐き出した。
 そんな姿を見て、まことは思わずにやりと微笑む。
「それにしても蝉ぐらいで尻餅つく程驚くなんて……」
「だ、だって……」
 まことの揶揄にちょっと拗ねたのか、赤い顔をしてこちらを睨む彼女。だが照れている所為かスカートの砂埃を払う仕種をして、直ぐに視線を逸らしてしまう。
「ははは……」
 まことがひとしきり笑い終えても、まだ埃を払っている。
 ――亜美ちゃんってば……。
 今度は揶揄からではなく、純粋に可愛らしく思えて、亜美を見て微笑む。
 まこと自身は蝉など何でもない。小さい頃は虫取り網を持って追い掛け回していたし、勿論手掴かみだって出来る。今はわざわざ掴まえたりしなくなったものの、それこそ見るのも触るのも全然平気だ。目の前で飛び立とうと問題ない。
 ――でも、
 蝉ごときで驚いて尻餅をつく亜美はまことにとって非常に新鮮で、そんな亜美が可愛く思えて仕方が無かった。
 しかしながら、あんまりからかってはかわいそうだと、まことは出来るだけ真面目な顔を作りながら話題を逸らした。
「洗濯物なんて気にしなくていいのに。亜美ちゃんはお客さんなんだからさ」
 まことがそう言うと、亜美はちらりとまことを見遣って遠慮がちに言った。
「でも、まこちゃんがお茶を煎れてくれる間は私は手が空いてるし、どうせだからと思って」
「嫌だな。気なんか使わなくてもいいんだよ。ほ、ほら、ね。あたしと亜美ちゃんは――…………ね、ねぇ?」
 たはははは、とどこか乾いた笑いを浮かべて手のひらを擦り合わせると、まことはそのまま言葉を濁してしまった。どうしても――“恋人同士”……という言葉が口に出せない。
 互いに告白し合って想いが通じたはいいものの、正直な所、思いが先走ってしまってどうしたらいいものか、逆に戸惑って二の足を踏んでいるのが現状で。まこととしては、もっと親密な関係というものも興味がなくはない――いや、むしろ色々…………興味はあるのだが、当の亜美を目の前にすると何も出来なくなってしまうのだった。
 見ると亜美も顔を赤くして、俯いてしまっている。
「で、でも、だ、だから……。わ、私はまこちゃんの……」
 だから? まこちゃんの?
「いいんだよ、気を――」
 言い掛け、
 ……………………あ。
「――ああ!」
 “恋人”だから、か。
 はたと思い至り、まことは猛烈に頭を掻いた。
「あ、ああ。あああ、そっか。う、うん。ありがとう」
「あ、あの、ご、ごめんなさい。お節介だったわよね」
 そう言って亜美は真っ赤になって、まことに背を向けてしまう。まことは慌てて言い繕う。
「い、いや、いいんだよ。ホントに、ありがとう。……もう、洗濯物、乾いてた?」
「え、ええ……」
「じゃあ、やっぱり亜美ちゃんに――」
 そう言いかけたまことはアイスティーの存在を唐突に思い出す。このまま洗濯物を取り込んでいては、アイスティーの飲み頃をすっかり逃してしまう。
「あ、いや、やっぱり洗濯物を取り込むのは後でいいよ。アイスティー、氷が解けて薄くなっちゃうからさ」
「あ、そうね。じゃあ後で……」
 そう言いかけた亜美が洗濯物を避けて、こちらへと近付いて来る。どこか緊張した面持ちなのは、照れているのかいまだセミを警戒しているのか――?
 そう思ったまことに悪戯心が湧く。洗濯物を避けて掻き分ける亜美の手元のTシャツを指差すと、するりと嘘が口を突いて出た。
「あ、亜美ちゃん、その洗濯物にも蝉が――」
「きゃあああッ」
 ――効果覿面。
 素頓狂な悲鳴を上げた亜美は、そのまま駆け出しまことの胸元にしがみついた。殆ど条件反射なので、思いっきり。
 否、これは覿面どころかもっと……。
 うわあ。
 亜美の細い肩を見下ろし、嬉しい悲鳴を懸命に押し殺す。そして遠慮がちに、でもここぞとばかりに腕を亜美の腰に回した。
 ――やった。
「ど、どこ?」
 亜美はまことにそれこそ無意識に摺り寄りながら、洗濯物を振り返る。洗濯物は風に靡いてゆらゆらと揺らめいていて、当たり前なのだが、セミの姿はどこにも見当たらない。
 今迄こんな風に感じた事のない柔らかな亜美の感触を楽しんで、にやけたまことが白状する。
「な――んてね。冗談だよ」
「な!」
 一瞬、亜美の柳眉がひそめられる。――が、直ぐに密着状態に気が付いて、まるで温められた温度計のようにみるみる顔を真っ赤に紅潮させてしまった。自分で企んだ事とは言え、腕の中のその様を見てつられてまことの顔も赤くなる。
「あ……えっと……」
「!」
 まことの腕の力が抜けたその瞬間、亜美はこれまた反射的にまことを突き放すと、彼女の横をすり抜け部屋の中に逃げ込む。
「亜美ちゃん!」
 咄嗟にまことは振り向き、亜美の腕を掴む。しかし掴んだはいいが、どうすべきか分からない。
 あ、だの、う、だの思わず口籠っていると、亜美がゆっくりと振り向いて、でも顔は逸らしたまま小さな声でごめんなさいと謝った。恐らくはまことを突き飛ばした事への謝罪だろうか。やはり……顔は真っ赤で。
「あ……いや……」
 まことも亜美の顔から視線を逸らすと、俯いて掴んだ腕を見る。そして酷く緊張しながら、手に込めた力を緩めて、亜美の細い腕をなぞるようにそっと下ろすと、彼女の手に触れた。亜美の肩が一瞬震える。
「……アイスティ、飲もうか……」
 触れる指に力を込める事も出来ず、苦し紛れにそんな事を言う。
「……ええ……」
 二人揃ってローテーブルの方へと向かい、ゆるゆると足を進める。
 その時、まことが、亜美の手を引いた。反射的に亜美はまことを振り返り、彼女の顔を見上げた。
 ――その時。
 背の高いまことが、後ろから亜美の肩越しに覗き込んできて、
 亜美の唇に触れた。
 唇、で。

   それはほんの一瞬の事で。

 亜美がぱちくりと眼を瞬かせると、もうその間にまことは身体を起こし前を向いていて。
 亜美が思わず手を唇にやると、もうその間にまことは一歩前へ進んでいた。
「――あ、」
「亜美ちゃん、の、飲もう、アイスティー」
 亜美の頬が染まる。――まことの頬も。

 少し飲み頃を過ぎたアイスティーの味も、うるさいはずの蝉の声も。
 なんだかひどく曖昧で。

 そんな、真夏の昼下がり。


fin.








POSTSCRIPT
あとがき
★またしてもぬるい二人です。そしてまたしても夏話。
★……毎日暑いですねえ。ラブい二人には暑さなんて関係ないんでしょうが。若いっていいわ〜(笑)

★はい。元ネタは某サイト様の日記より(笑)セミって恐いですよね…。ワシもセミは苦手じゃて。この間愛犬の散歩に行ったら、公園の木(ニセアカシア?)の木の下に無数の親指大の直径の穴が! ぎゃーす! 無数ですよ、無数。 1本の木につき10個以上は空いてます。キモ! …ごめんよ、セミさん。何年も土中にいるキミに同情こそすれ愛情は持てないよ。
★でもその散歩の帰り、折よく(?)セミの羽化前の奴(やっこ)さんを見つけ、もそもそと手直な木を目指す姿には、頑張れよ、とガラにもなく声援を送ってしまいました。飛ばなきゃまだ可愛いんだよ。飛んで、向かってくんな。…セミさんに言いたいのはそれだけです。チーン。




Waterfall//Saku Takano
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