――いつも決まって見る夢があった。 うずくまって泣いているとどこからかあの子が駆けつけて、なぐさめてくれた。 『大丈夫か? どこかいたいのか?』 それはとても優しい声で、その声を聞くと気持ちがあたたかくなって、怖い気持ちなんてどこかへ飛んでいってしまった。 けれどしばらくすると、その子はいつの間にかいなくなっていて、真っ白な空間にひとり残された。 両親を探したけど見つからない。ここがどこだかも分からない。 そのうちに世界があかく染まった。真っ赤だった。 真っ赤で、どこもかしこも真っ赤で、――怖くて怖くて、でも逃げ場所なんてなかった。しゃがみこんで耳も目もふさいで震えていると、今度は世界が真っ暗になった。助けを呼ぶこともできずにいると、やがて声が聞こえて来た。 『大丈夫だ。わたしが護ってやる』 とても優しい声だった。 けれどわたしはそれが夢だと知っている。 これは夢だ。だから目が醒めてしまえばすべては消えてしまう。優しい声も、あたたかな手も。何もかも。 何もないのだ。わたしは空っぽで、わたしの心の中には、何もないのだ。 わたしの心の中には、真っ暗な闇がある。 だから目なんて醒ましたくなかった。 ずっと眠り続けていれば、嫌なことなんてない。ずっと、ずうっとわたしは夢だけを見続けていればいい。 空っぽのまま、ただ――夢を。 熟した柿のように、熟れすぎた夕日が落ちかけていた。 老朽化した高級住宅の屋根に、ふたつのシルエットが浮かび上がる。 身体にフィットしたダークグレーのボディアーマーに身を包み、銃火器を手にして重々しい装備で身を固めているが、シルエットは細くやわらかい。――それは明らかに女性だった。 女性特有のしなやかなボディラインがボディスーツにも似たアーマーを彩り、紅い陽光が、フルフェイスヘルメットにも似た、特殊防弾ガスマスクのシールドを紅く染めていた。 バブル期に立てられたものの、幾人かの家主が去ったあとは結局買い手がつかず打ち捨てられた高級住宅はひっそりとしていた。薄暗い建物の中は、物音ひとつしない。 縦横に浅い亀裂が走り、建物が老朽化していることがはっきりと見て取れる。けれど作戦部の調査により、窓が防弾性だということは分かっていた。ハンマーで窓を壊すのは不可能だ。 四人組の作戦部隊のうち、ふたりは正面に回っている。こちらは裏手で、目の前には元は中庭だったとおぼしき荒れた草地が広がっていた。突入予定の窓が屋上から目視できた。無言のまま手の合図だけで配置完了を伝え、通信機から聞こえた作戦開始の合図と共に、特殊装備の二人がするすると目標の窓まで速やかに降下した。 特殊装備と言っても、身体のラインがはっきりと見て取れるほど薄手のボディアーマーは、極薄の特殊繊維が何層にも重ねられたもので、アーマーというよりもやはりボディースーツの名の方がしっくりと馴染んだ。この《アーマードシールド》は近年開発されたもので、防弾・衝撃吸収にすぐれ、拳銃弾ならばほとんど完全に防ぐことができ、それゆえ彼女たちは重たく動きづらい防弾ベストから解放されることとなった。 彼女たちはその上に、いくつものポケットのついた戦闘用タクティカルベストを着用し、自動拳銃と短機関銃――H&K・MP7と予備弾薬、特殊手榴弾、爆薬等を装備していた。頭部はまるでフルフェイスヘルメットのような特殊マスクを装着しているため、どちらも表情は伺えなかった。 懸垂降下ロープをすばやく調節し、ぴたりと定位置で止まると、枠状爆薬を仕掛け、爆破させる。すばやく窓の中に飛び込むと、特殊閃光・音響手榴弾を投げ込み、目標の部屋へと向かった。 ――すべては一瞬だった。 建物の中に潜んでいるテロリストは熱探知機により、リアルタイムで目の前に浮かび上がるエア・モニター上の見取り図に映し出される。 混乱するテロリストが目標の部屋から飛び出して来たところを、チームメイトがサブマシンガンの銃床底で殴打し、脳震盪を起こさせた。 その隙に室内に入り込み、正面から突入した仲間とともに残りのテロリストを次々と制圧する。テロリストは四人。向けられた銃口を避け、ライフルのレシーバーを掴んでグリップを握る腕ごとひねり、顎に掌底をお見舞いする。さらにライフルを奪いながら回し蹴りを打ち込んだ。 一分の隙もなく完璧に打ち込まれた衝撃に、男が沈黙する。 別の男がライフルをこちらに向けようとするのを目の端で捉え、自動拳銃を引き抜いた。スプリングフィールド社製XD9ポーテッドV10の引き金をすばやく二度引く。男の両肩に一発ずつ打ち込まれ、悲鳴と共に男がくずおれた。 すかさず周囲を見回し、現状を確認する。室内で倒れている男は四名。部屋の片隅では、人質となっていた男性二人をチームメイトが保護していた。 すべてが一瞬のうちに終わっていた。 ――任務完了。 だがその時、銃声が聞こえた。残響が響いて、発射元が特定できない。熱探知機を確認するが、発砲したわずかな熱源はあるものの、犯人とおぼしき熱源が感知できない。――どういうことだ。 消えた小さな熱源のあった廊下に飛び出した。 廊下で、チームメイトが床に突っ伏してうめいていた。それを目にした瞬間、背後から敵の気配がした。――けれど、熱探知機は何も反応していない。そこに人がいるはずがなかった。 けれど少女はくるりと身を反転させると、背後にいた男の銃口を避け、最初からそこに男がいたのを知っていたかのように、正確に男に銃弾を撃ち込んだのだった。 二発。着弾と同時に熱探知機の生体反応を示すポイントが現れ、赤から黄色に変わった。 撃たれたテロリストは大きく揺れると、大理石の床に頭から突っ込んだ。 「――任務完了」 無機質な声が、少女の唇からこぼれた。 それを合図に、エア・モニターにミッション・コンプリートの文字が浮かび上がる。 すると大理石の床も、黄ばんだ壁も、すべてが一瞬のうちにまっさらなグレーのパーティションへと変わった。人質も、人質が座っていた椅子もすべてが消えうせる。モーター音とともにパーティションが動き、通称キリング・ハウスと呼ばれる模擬訓練場は、だだっ広いだけの大きな部屋になった。 「あーもー、サイッテー!」 少女が振り向くと、撃たれたはずのチームメイトがレスピレーターを脱ぎつつ、立ち上がるところだった。 「軍人相手じゃあるまいし、貧乏テロリストが光学迷彩ってあり得ないっしょ! このVR試験、設定した教官誰よ! 性格の悪さがにじみ出てるっつうの!」 確かに試験前に通達された作戦情報では、とても高価な光学迷彩など持てそうにないテロリストのように思われた。規模、火器等の装備も危険度は少ないものだったし、彼女のように思い込んでも仕方のないことだった。だが、実戦では何があるか分からない。だからこそ、ありとあらゆる状況に対応できるように訓練するのだ。 「――さあな。誰が組んでも関係ない。与えられた任務をこなすだけだ」 淡々と答える少女に、不満を言った少女が舌をのぞかせた。 「あーあ。凪はノーミスでパーフェクト。あたしは被弾D判定で再試験かぁ。せっかく凪と組めて、高得点狙えるかと思ったのに……。ついてなーい!」 ぼやきつつ、少女が出入り口に向かった。その背には先ほどまでの緊張感はなかった。訓練も任務も何もない、十代の少女そのものの素直な姿に、凪と呼ばれた少女も緊張を解いた。そしてレスピレーターを脱いで、同じく出入り口へと向かう。レスピレーターから解放された長い黒髪がふわりと舞った。 ほか二名のチームメイトも、テロリスト役の教官たちも、後に続いた。そして模擬訓練場の照明が落とされる。 ――新湾岸総合文化学園・軍事訓練科、第一次VR試験が現時刻をもって終了したのだった。 ゴム弾の装填された装備を武器課に返し、レスピレーターをロッカーにしまい、シャワールームに向かった。 ガラスで区切られた個室のドアを押し開け、アーマードシールドのジッパーをへその下まで引き下げる。アーマードシールドはそれまでのアサルトスーツやボディアーマーとは比べ物にならないほど画期的な装備ではあったが、格段に安全性が高まったものの、素肌に着るためその着脱は身体に密着している分、とても面倒だ。 胸元を開いて、それを下ろそうとした時――、 「おっつかれー」 どこからか能天気な声がして、少女は肩を震わせた。 慌ててスーツを引き上げ、さして大きくはない胸元を覆い隠す。きょろきょろと辺りを見回そうとして、隣の個室に見慣れた顔があるのを発見して睨みつけた。 「み……御影! そこで何をしてる!」 「何って、目の保養かな? といっても、凪じゃちっとも保養にならないけど」 そう言って、まるで石膏像のような彫りの深い顔立ちをこちらに向ける。誰もが息を飲むほどの美少年だったが、まぎれもなく彼女は女性だった。 けれど身を硬くした少女はその視線を追ってそれが自分の胸元に注がれているのを感じて、背中を向けた。 「う……うるさい! 何の用だ! お前の組んだ試験はパーフェクトでクリアした。文句ないだろう!」 「はは。あの試験はちょっといじわるだったかな?凪じゃなくて、別の子が引っかかっちゃったけど。……もちろん文句はないよ。いや、さすが軍事訓練科の期待のエースだね。聞いてるよ、もうあちこちの企業からスカウトの声がかかってるんだって?」 ニヤニヤとしながら、御影と呼ばれた少女が個室を覗き込む。そしてスーツを脱がんとしている少女の腰まで伸びた真っ直ぐな黒髪を一筋すくった。 「……背中を流そうか? 良ければわたしがスーツも脱がしてあげ――」 「うるさい! こっちは試験後で疲れてるんだ! お前も教官ならこんなところで油を売ってないでとっとと戻れ!」 少女はその手を振り解き、向かいの壁に背を押し付けて少しでも距離を取る。 そんな姿を見て、御影が苦笑した。 「まったく君はカタブツで冗談が通じないんだからな。ご希望通り退散するよ。……あ、そうそう。シャワーが終わったら第II指導室まで来てくれ。松野教官がお呼びだよ」 「第II指導室……?」 「じゃ、伝えたぞ」 そう言って美少年のような彼女が去っていく。警戒しながら足音が遠くなるのを確認して、小さく息をついた。教官兼、友人でもある御影は時々冗談が過ぎるのが珠に瑕だった。 しかし、一人個室に残された少女は、校内放送ではなく内密に呼び出される理由を考え、首をひねった。 「呼び出し……? どういうことだ? ――っくし!」 汗をかいた上に肩をむき出したままでいたものだから、すっかり身体が冷えてしまっていた。作戦中とは違い、年相応の可愛らしいくしゃみをすると、慌ててスーツを脱ぎ出す。 「まったく御影がふざけるから……」 シャワールームのドアの前で、足を止めていた御影はそれを聞いて、小さく笑った。 † 防弾ガラスの嵌め込まれた窓から夕陽が差し込み、教官の前に背筋を伸ばして立つ少女の顔を照らし出した。まるで軍服のようにも見える制服をまとった少女の表情からは生真面目さが伺える。先ほど試験を終えたばかりの少女、――凪、だった。凪は目の前の執務机に着座する教官の言葉に、きりりと柳眉をしかめその表情を曇らせた。腰まで伸ばした真っ直ぐな黒髪がかすかに揺れる。 「……護衛、でありますか?」 元々柔和とは言いがたい、十六という年齢には不相応な鋭さをともなった端正な顔つきがさらに険しくなる。 その切れ長の瞳のせいか、無表情でいると大概は怒っているかのように見られるが、当人としては怒ってなどない。だが、今、この時ばかりは違った。怒ってはいなかったが、驚きととまどいとで蒼い切れ長の瞳が、更に鋭く尖った。 何せ告げられた護衛対象の名が、名だ。少女の胸中に複雑な思いがわだかまっていく。 「護衛の実習模擬訓練とのことでありますが、なぜ護衛対象が軍事訓練科の者ではなく、一般の……普通科の生徒なのでしょうか?」 怖じることなく問い返す姿を見て、教官は心の中で苦笑交じりの溜め息をついた。目の前にいる少女は、実技に関してのみ言えば、すこぶるつきの優秀な生徒ではあるが、扱いに困る生徒の一人でもあった。逸らすことなく真っ直ぐに向けられた視線からは、任務を忠実にこなそうとする生真面目さと、容易に意思を曲げぬであろう頑固さが見てとれた。 十五、六のガキにしちゃ、胆のすわった眼してやがるぜ。 その独言を飲み込んで、男は極秘と書かれた防護タグのついた、護衛対象者の詳細が記された小さな外部記憶装置を前に押し出した。 「志倉凪(しくらなぎ)くん。きみは実に優秀な生徒の一人だ。実務訓練だけでなく、学科まで申し分ない。ゆくゆくは優秀な軍人になるだろうと、皆、君に期待しているんだがね。まあ、それはともかく実はとある人物からの強い推薦でね。ぜひとも宜しく頼むよ」 男は柔らかな雰囲気を醸しつつも、けれど有無を言わせなかった。軍役をしりぞいてなお、男の眼光は鋭さを失っていない。 志倉凪と呼ばれた少女は、踵を打ち鳴らし軍人さながらの敬礼を返す。 「了解(サー・イエッサー)」 「君の階級は明日から准尉となる。行ってよし」 「イエッサー!」 定規で計ったような正確な回れ右をして、少女が第II指導室を後にする。 ――とある人物――飄々として、何を考えているか分からない歳若い男の顔を思い浮かべて、四十路に差し掛かった教官は額に浮いた汗を拭った。……綾瀬学園長は一体何をお考えなのか……。 実習訓練の一貫として、軍事訓練科一年・志倉凪に普通科一年・綾瀬涼花(あやせりょうか)の模擬護衛を実施する。 尚、指導教官として、軍事訓練科三年に在籍する五条御影少尉がこれを指導する。 そう記された指導要項を見て、ちらりと背後に視線を送った。 視線の先には、先程の少女と同じ制服を着た少女が後ろ手に腕を組んでのんびりと立っていた。背が高く、一見少年と見紛いそうな中性的な雰囲気を醸しているが、女性であることは間違いない。 まるで英雄の石膏像がごとく白皙で彫りの深い顔立ちに、眼差しにさえ色気が漂うような、おおよそ軍事訓練科には似つかわしくない美少年――もとい、美少女であるが、彼女は優秀な成績によって、すでに飛び級で軍事訓練科の教育課程を終えていたものの、軍人になるのを嫌って未だ学園に生徒として在籍する変わり種だった。 「や、ごくろーさまです。松野教官」 彼女が右手を上げ、飄々と言う。 「……はあ」 生徒でありながら、教科――作戦科――によっては教官でもある彼女は同じ教師としては非常にやりにくい存在だった。十八の小娘め、という思いを抱く教官も多い。松野教官もその一人だ。おまけに彼女はこの学園の母体である企業、綾瀬グループの親戚筋の者だと言うからなおのことだ。 「じゃあ、そゆことで。わたしのものも含めて、彼女の普通科への転科届け、お願いしますね、ぐ・ん・そ・う!」 彼――否、彼女の言葉に、男性教官は今度こそ本当に溜息を吐きだした。 二一世紀初頭に起こった世界金融不安に端を発する混乱は、沈静化するどころか拡大の一途をたどった。世界中で動揺が広がり、それに煽られるように年々凶悪犯罪が増加し、治安は乱れに乱れた。 やがて二一世紀中頃、そんな現状を是正しようと《新日本復興》のスローガンのもと、新政府が誕生した。 復興と再生のために、そのシンボルとして東京近郊の湾岸の一角を埋め立てられて作られた新市街を《新湾岸都市》と呼ぶ。政府の肝煎り政策のひとつとして都市計画が立案され、独立した都市機能を持つ、ある種奇妙な海上都市が誕生したのである。 新湾岸都市では、新味なる計画が持ち上がった。警察機構としての犯罪の抑止だけでなく、その前段階、教育プログラムでの社会的文化的意識下の犯罪抑止を目指した、通称《箱庭政策》が掲げられたのである。つまり、犯罪を起こさない人間を養育するための超長期計画である。 その主たる象徴的存在が新湾岸総合文化学園だった。 幼稚舎から大学までの一貫教育を基本とし、普通科、特種技能科とに大分された教育プログラムは、学業の修得だけでなく、スポーツの英才教育から宇宙開発のための英才教育や職業訓練的な意味合いを持つものまで、幅広く学科が設けられた。 行き過ぎの感のある政府の意図はともかくとして、国内からだけでなく海外からも優秀な人材が集められた教授陣により、教育の場としてのポテンシャルは非常に高く、結果として多くの優秀な生徒が集められた。 そして、新湾岸総合文化学園には、他の都市の学校教育には決して見られることのない非常に特殊な学科が創設された。 軍事訓練科――である。 その名の示す通り、将来の指揮官かあるいは優秀な兵士を育てるための学科である。 † 新湾岸総合文化学園の軍事訓練科・第II指導室で志倉凪に護衛の実習訓練が命じられたその翌日――綾瀬涼花は、目の前で婉然とした笑みを浮かべてふんぞり返る叔父の言葉を聞いて、その表情を曇らせた。 「……護衛、ですか?」 名は体を表すの言葉通り、凛として涼し気に咲く花のような見事な美少女の顔に影が落ちる。 大きな瞳は日本人にしては色素が薄く、鳶色の瞳は光の加減でときおり翡翠色に輝いた。それが神秘的な雰囲気を醸し、少女らしい美貌とあいまって見る者の目を奪った。 腰まで伸ばした髪は非常に細くやわらかく、朝の光を受けてきらきらと光り、影の落ちた不安げな表情に、彼女の生まれ持ったはかなさが尚一層増した。戸惑って口元に手を宛てがう仕種にも天性の華がある。 可憐な姫君―― そんな雰囲気をまとった彼女は、世が世なら婚姻を求める貴族の子息が列を成したに違いない。 それが綾瀬グループ総帥・綾瀬章世の娘、涼花――新湾岸総合文化学園高等部普通科一年――だった。 「あの……ご冗談ではなく……?」 戸惑う仕種もまた可憐で愛らしい。 「うん。護衛。必要なんだよね」 一方、歳若い叔父は今年三十四の誕生日を迎えたはずであるが、整った顔立ちはどちらかと言えば童顔の部類で、二十代……どころか十代と言っても通りそうだ。本人は学園長という役職もあってそれをいたく気にしていたが、楽しい遊びでも見つけた子供のように悪戯っぽい笑みを浮かべる彼は、なお若く見えた。 涼花はそんな楽しそうな叔父の口の端が釣り上がってるのを見て、いつもの気紛れが出たのだと悟った。綾瀬の血筋はそうなのだ。面白そうなことがあると合理性だの常識だのを丸きり無視して己が好奇心を満たすためだけに、突き進んでしまう。 涼花は小さな溜め息をついて、紅茶に口をつけた。 「……叔父さまのおっしゃっている意味が分かりません。どうして護衛など必要なのですか?」 かちりと微かな音を立ててカップをソーサーに戻すと、叔父が組んでいた足を組みかえて、満足そうに笑った。 「最近ね、ちょっと物騒な事故がおきちゃってね。兄さんの大事な大事な一人娘を預かる身としては、非常に気を揉んでいてね。表向きは軍事訓練科の実習訓練ってことにしてあるから問題ないし、まあ、きみが大人しく護衛されてくれると助か――」 「嫌です」 「あ、やっぱり?」 ピシャリと言い切る涼花。 その瞬間に姫君のような可憐さが鳴りをひそめ、冷ややかに目が細められる。 「質問の答えになっていません。物騒な事故とは何なのですか? それにわたしひとり特別扱いされるのはイヤです」 「はは。涼花は勇ましいねぇ」 ――勇ましいというか、恐い。 財閥の流れを汲む日本有数の超巨大企業・綾瀬グループの宗家の一人娘である綾瀬涼花は、残念なことにその外見の可憐さとはうらはらな性格をしていた。 天邪鬼、といえばまだ聞こえはいいが、生半可なことでは首を縦に振らず、頑固で融通がきかないのだ。一見すれば可愛らしいだけに、大概の人間はその豹変ぶりにあんぐりと口を開けた。 黙っていれば可憐な美少女そのものなのに、右と言えば左と言うし、上と言えば下と言う。おまけに極度の人見知りで、つい他人に対して壁を作ってしまい、愛想笑いひとつ浮かべられない。 要するに可愛げがないのだ、涼花は。 本人もそれを重々承知しているので、なおのこと頑迷な態度を取ってしまう。 今もそうだ。はいそうですか、とうなずけばいいのに、こんなふうに反発してしまう。 叔父はそんな不器用な姪の姿を見て、にっこりと笑った。まるで毛を逆立てる猫みたいだ、と思いながら。そう、猫には猫じゃらしを与えればいい。 「そう思ってね、ちゃあんときみにぴったりの護衛を雇ってあるから。きっと君も気に入ると思うから、ね」 「叔父さま。わたしは護衛などいりません。大体、学園に通うのに護衛なんて――」 「あーでももう手配しちゃった。今日から来ることになってるから。じゃ、そゆことで。細かいことは本人から聞いてね」 そう言って、朝のホームルームに遅れないようにね、と釘を刺す叔父にぐいぐいと背中を押され、学園長室を追い出された。 「お、叔父さまっ! わたしは――」 「あ、それから、子猫ちゃん。怒ってばっかりいると、可愛い顔が台なしだよ」 「はあ!? 一体なに――」 つんつんと頬をつつかれ、反論する間もなくバタンと扉が閉じられる。 涼花は閉ざされた扉の前で振り上げた拳のやり場を虚空に求め、盛大なため息を吐き出した。 「もう、いっつも強引なんだから!」 そしてむっつりと頬を膨らませて、ずんずんと廊下を歩き出す。 ――折角の可憐な美少女を、見事に台なしにさせて。 涼花が出て行った正面扉とは違う、執務机の右手にあるドアがおもむろにノックされた。 学園長である綾瀬教世がどうぞと声をかけると、そっとドアが開いた。 「きみか」 眼鏡をかけた女性が柔らかな笑みを浮かべて、入って来る。 「相変わらずですね、お嬢様は」 「まったくとんだじゃじゃ馬だ。頑固で怒りんぼで、おまけにちっとも素直じゃない。野良猫だって時にはもう少し甘える素振りを見せるものだと思うがね」 「怖いんですよ。野良猫は、人の愛情に裏切られるのが――」 「そんなもんかね」 「ええ。それに……」 「ん?」 「お嬢様のそういうところをお好きなんでしょう?」 そう言われて教世はくすりと笑った。 「まあね」 入って来たのは教世の秘書である女性だった。眼鏡の奥から覗く瞳は理知的で、素朴な花やかさがあった。手にしていた各種ファイルメモリを手渡して苦笑いする。 「学園長だけだと思いますよ。お嬢様を野良猫呼ばわりなさるなんて。さて、こちらが転科手続きのファイルです。それにしても今回の件、よく上層部がお認めになりましたね。お嬢様に護衛をつけるなんて。おまけに護衛するのは――」 その名を口にしようとして、秘書が思わず口をつぐんだ。 けれどそれを面白そうに引き継いだのは教世だった。 「いわくつきの志倉凪――」 長く伸びた脚をするりと組みかえ、腕を組む。 「例の事件の彼女の過去のデータはほとんど削除済みで、上層部でも詳細を知っているのは極一部だ。というか、あまりあの件に関わりたくないんだろうねえ。皆さん、保身に忙しいのさ。それに、学園に関わる者でそれを知っているのはわたしだけだしね。本来ならばこのまま過去のこととしておきたかったが、そう悠長にしてしていられなくなったんだ。彼女と――」 そう言って、一度言葉を切って瞳を閉じる。 「可愛い涼花のためにもね」 悲しげに伏せられた目に、朝の日射しが舞い降りる。 ――このプロジェクトにより日本の――、いや、世界の歴史が変わる。それでいい。 そう思った。 「あ。変わったハーブティを見つけたんです。お飲みになりますか?」 ぱちりと目を開くと、目の前に秘書の顔があった。にこにこと微笑む姿に、重く沈んだ気持ちが払拭されるような気がした。 「……きみは良い子だね」 「恐れ入ります」 「なら頂こうか。きみの、ハーブティを」 「はい」 どこか嬉しそうに去って行く後ろ姿を見て、教世は苦笑した。――彼女は究極の味音痴で、料理はおろか紅茶ひとつ満足に入れられないのを知りながら。今日もひどい味のハーブティを飲まされるのに違いなかった。 「箱庭のフィーリア」へ続く |