ありったけの笑顔で

 

……この想いは、叶わない
叶えちゃ――いけないから

だって。

私にはこの想いを伝える術はないから

この想いはあなたを傷つけてしまうから――



◆ ◆

   1. *タコカフェにて……*

「でね! 莉奈の当番だったんだけど志穂ったら伝え忘れてて、話が噛み合わなくてもうおっかしーの! でねでね!」
 たこ焼きを口いっぱいに頬張りながら、くるくると表情を変える彼女。身振り手振りは優に及ばず、表情だけで彼女――なぎさ――がどんなに想いを一生懸命に伝えようとしているかが分かる。豊かな表情は何より饒舌で、それだけで知らず笑みが浮かんでくる。
「もう、なぎさってば、そんなに詰め込むとまた喉に支えるから――」
 こぼれ出る笑顔に、こちらもまた笑顔になる。そして言った側から、シマリスのように頬を膨らませてどんどんと胸元を叩きはじめる彼女(なぎさ)
「あ――死ぬかと思った!」
「んもう!」
 そして何事もなかったかのように、大好きなチームメイトの話を続ける。
「でね! 何て言ったと思う? 莉奈ってば――」
 その内に見かねたひかりさんが、そっと水を持って来てくれたのが見え、二人でこっそりと笑い合った。
 ――たわいもない会話なのに、こうしているだけで楽しくて、本当に時が経つのも忘れてしまいそうになる。
 だからこそ微かに暮れてきた朱の色を帯びた秋空が恨めしい。足下に視線を投げ掛けると、長く影が伸び始めていた。

 あと少し。――もう少し。

 そう思うから、会話を途切れさせられない。時折合う視線が名残惜しく絡まるから、もう少しこのままでと願わずにはいられない。
 明日には、また学校で会えるのに。授業が終わったら互いに部活へ行き、それが終わったらこうしていつも通り寄り道をして。……それだけ。でもそんな些細な毎日が、とても大切で。
 小さな毎日の積み重ねがこんなにも愛おしい。
「――それで皆で大笑い! マキなんてお腹かかえて笑ってるの!」
「ホント!? あ。ちょっと待って、なぎさ。口元に青のりついてる」
 ふと、食べ終えた彼女の口元にちいさなカスを見つけて、丸いテーブル越しに手を伸ばした。こんな事もよくある事で。
「あ。サンキュー、ほのか」
 渡したティッシュで大雑把に口元を拭うと、にい、っとこちらを向いて笑って見せる彼女。まだ口元に拭き残しがあったから、自分の口元の同じような所を指し示すと、その辺りを拭き直した。
「この辺?」
「うーん、もうちょっと……かな」
「あれ? マジ? どう?」
「う……ん、ちょっと貸して」
 言ってティッシュを受け取ると、彼女が素直に口元を差し出す。その姿があまりにも無防備過ぎて――、
 こんな何でもない事に、どうしようもない気持ちになったりして。少し、胸の奥が締め付けられる。

 柔らかな唇に何気ない振りをして触れる、――特権。

 他の誰にだって、きっとここまではさせないであろうそんな小さな優越感が、胸を過ぎる。友達以上。でも。それだけで。
 それだけで、どうしようもない気持ちになるから。
「どう、ほのか?」
 いーっと、口元を強調するから、それに答えるように人差し指と親指とで丸を作ってみせる。すると、へへっと照れ笑いを浮かべたりして、そんな無邪気な笑顔が、こんなにも眩しくて。
「さんきゅ、ほのか」
「どういたしまして!」

 ――胸が締め付けられる。

 いつからだろう。こんな気持ちを感じるようになったのは。
 ただの友達、親友であったはずなのに、気が付くとそれ以上の存在になっていた。
 彼女の屈託のない笑顔を向けられるだけでこんなにも気持ちが満たされるのに。でもそれだけで。彼女の仕種ひとつひとつを視線で追いながら、何でもない振りをして。
「そういや、まだ雪城さん、美墨さん、なんて呼び合ってた頃もこんな事あったよね。私が今みたく青のりくっつけてたら、ほのかがハンカチ渡してくれて」
「え? ――あ、ああ!」
 慌てて思考回路を切り替えた。
 まだ初めての喧嘩をする前の事。初めて《アカネさんのたこ焼き》を教えて貰った時の事を言っているのだろう。まだ二年程前の事なのに懐かしくなる。美墨さん、雪城さん、という呼び方さえもなんだかこそばゆい。
「ほのかの家にハンカチを届けに行ったら、この子が突然『ミップルが危ない』なんて言い出して、そしたら本当にほのかたちがピーサードに襲われてたじゃない? 愛の力ってすごいなって思ったんだよね、あの時」
 鞄にくくりつけられたコミューンケースを指差しながら、呆れつつも妙に生真面目な顔をして話すなぎさに思わず頷かされた。
「そうそう。この子たちの想いの強さってすごいわよね」
「もう、呆れるくらいにね」
 この子たちの仲睦ましい姿は、本当に呆れる程に見せ付けられているのだから無理もない。互いにこっそりと笑い合っていると、当の本人達が抗議し出した。
「呆れるとは何だメポ! なぎさはお子ちゃまで愛を知らないからそんな事言うんだメポ!」
「ちょっと、メップル! いきなり喋り出すなっていつも言ってるでしょ! それにお子ちゃまとは何よ。私だってねぇ!」
「そうミポ。なぎさは愛を知らなくても、いつも助けに来てくれるミポ!」
「いや、ミップル、それフォローになってないから」
 それまで大人しくしていたメップルとミップルがそれぞれコミューンケースから顔を覗かせ、なぎさが頭を抱える。――これもいつもの光景。それにポルンやルルンが加わると収集がつかなくなってしまう事もしばしばで。こんな日常がたまらなく愛おしくて、ミップルが言った言葉が、身体中をあたたかな思いで満たしていく。
「でも――、ミップルの言う通り、なぎさはいつも私を助けに来てくれるわよね」
「へ?」
 言われてなぎさが目をぱちくりとさせる。予想通りの反応に、くすりと笑って言葉の続きを告げた。
「あの時も――、私が連れ去られた時も。――ね」
 闇の戦士たちに闇の世界に連れ去られた時。そんな時でさえ、彼女は飛んで来てくれたから。どんな時も。どんなに暗い現実しか見えなくても、信じていられるから。
「あ…………」
「なぎさが、私に信じさせてくれるから」
 ――ね。
 そう言うと、なぎさの顔がはにかんだ笑みになった。少し照れくさそうにしながら、大きく頷く。
「そりゃほのかのためなら、いつだってどこだって助けに行くわよ――絶対にね! 風よりも早く飛んで行っちゃうんだから!」
 彼女の笑顔にまるで勇気づけられるみたいだった。
 ちょっぴり照れていたって、彼女の言葉が嘘でないと分かる。
 分かるから、その分、胸がチクリと痛む。友達で。親友で。それ以上でも以下でもなくて。この距離をもどかしく想う気持ちなんて、あなたは知らない。
「……ありがとう」
「あーもー。そんな事言うから、余計にお腹が空いてきちゃったよ。たこ焼きもう一皿……」
「もうなぎさ食べ過ぎ!」
「やっぱり?」
「こんなのが伝説の戦士とは……メポ」
「ミポ……」
「何よ、あんたたち――!」
 こんな事が当たり前になって。
 もう少し。
 もう少し。
 そんな風に時間を惜しむから。
 一緒にいる時間が、嬉しくて、――――、切なくて。



   2. *前へ進む時間*

 ――時間が止まったみたいだった。
 それまでの、タコカフェでの緩やかな時間が、ほんの少しだけぎこちなく軋む。――少し肌寒いくらいの初春の風にはためく「たこ焼き」の真っ赤なのぼりの向こう、幼い頃から見慣れていた人影が遠目に見えた。
 小さく息を飲む。
 反射的にそちらの方から僅かに視線を逸らせてしまった事に、どうしようもない自己嫌悪を感じながらも、結局は目を上げる事さえ出来なかった。
「あれ、ほのか! それに美墨さんも」
「ふ、藤P先輩!? あ、こ、こんにちはっ! 今日もサッカーの練習ですか!?」
 タコカフェのパラソルの下、不意に背中から掛けられた幼なじみの藤村くんの声に、バネ仕掛けのおもちゃのように、なぎさがパイプ椅子から飛び上がった。湯気でも立つかと思う程顔を紅潮させ、しどろもどろになって返事をする彼女はまるで恋する気持ちをぱんぱんに膨らませた風船のようだ。耳まで真っ赤にして、ほんの少しの事で今にも破裂してしまいそうだ。
「うん。明日練習試合でさ。身体を休める為に早く終わったんだけど、それでもヘトヘトだよ。やっぱり高校のサッカーはレベルが高いね」
「でも、藤P先輩、高等部に行っても1年生からレギュラーですごいですっ!」
 彼と少し会話するだけで精一杯で、懸命に言葉を選びながらちょっとずつ想いを込める。こんな事だけでも彼女にはたくさんの勇気が必要で。きつく握った拳はその勇気の証だった。だから――――。
「練習試合ってどこでやるの? 高等部のグラウンド?」
「今回は市営グラウンド」
「じゃあ、応援しに行っても大丈夫よね?」
「え? 大丈夫だけど……」
「なぎさ、明日の予定は空いてるよね?」
「え……あ……」
 思考がショートしそうになるなぎさに向かって、微かに頷く。するとそれを見たなぎさが、ぐっと息を飲んだ。
「あの……あ、明日、応援しに行きます!」
「え? ホント!?」
「はい! 絶対! ――ね、ほのか!」
 真っ赤な顔がこちらを向き、真ん丸の大きな目で必死に訴えかけて来る。
 そんな姿に、ちくりと痛む胸が苦笑いを浮かべる。でも、心の中にほんの少しどこか蟠る気持ちがあるのだというのに、彼女の笑顔があっさりとそれを押しのけてしまうから。
「いいけど、なぎさ起きられるの? 試合って朝早いんじゃない?」
「もうほのかってば!」
 なぎさの拗ねた顔に皆で笑う。
 近頃のなぎさは、想い人の前でさえこんな表情をするようになった。以前は彼の前ではおっかなびっくり緊張ばかりしていたのに、少しずつ少しずつ、彼女の気持ちが前へ前へと進んでいた。
 それはとても喜ばしい事で。
 けれど、

 ――ちくり、と胸が痛んだ。



   3. *夕闇*

 落ちていく夕陽に飲み込まれそうになる。真っ赤になって燃え落ちる紅い陽の玉は蜃気楼のようにゆらめきながら背の高いビルの谷間に沈み込んで行く。
 初秋とはいえ、残暑の熱はすっかり身を潜め、制服のブレザーを通して冷気が四肢を重くしていく。足が動かない。
 どうしてこんな所へ来てしまったのだろう。
 幼い頃、よく通った小さな公園は、今になってみればとても小さくて、まるで外界から切り取られた箱庭のようだ。僅かばかりの遊具と砂場くらいしかなく、侘びしいと言えば侘びしくも思えた。
 ブランコに座り膝に鞄を置いた。ブランコはとても低くて、こんな風に折り曲げた足では漕ぐのは難儀しそうだ。そのブランコを小さな頃は飽きもせず漕いでいた。
 少し足を動かすと、キイ、と鳴いた。
 しばらくしてまた少し動かすと、また小さくキイ、と鳴いた。
 キイ。キイ。
 それからもう動かす気にはなれなくて、ただ鞄に視線を落としていた。
 きっとミップルも何事かと不安に思っている事だろう。ミップルの入ったコミューンケースをぼんやりと眺める。
 何も聞かないのは、彼女の気遣いなのだろう。こんな時メップルならやかましくなぎさに問い詰めるに違いない――。
 そう思った時に、ぽつりと雨が降って来た。鞄に小さな染みを作る。
 けれど、そう思って気が付いた。それは雨ではない。
 自らの降らせた滴が、ぽたりぽたりと染みを広げていく。
 止まっていた思考が、不意の切っ掛けで動き出す。ただ少し、彼女の事を思い出しただけなのに。
 なぎさは親友で。藤村くんは幼馴染みで。どちらも大切な人で。
 以前はこんな気持ちになどなりはしなかった。――誰かを思って泣くなど。――誰かをやる瀬なく思うなんて。
「ほのか……」
 気遣うような小さな声が鞄の上から聞こえて、慌ててコミューンケースの蓋を開けた。ミップルを取り出してフリップを回すと、不安げな顔をしたミップルの顔がこちらを見上げてくる。
「ごめんなさい。ちょっと目にごみが入って……」
 涙の浮かんだ目元を擦りながらそんな言い訳をして、それが全く意味のない事を自覚する。もう二年以上もずっと共に暮らしているのだから、こんな嘘など簡単に見破られてしまう。目にごみなど入っていない。
 小さな溜め息をついて、潤んだ瞳のまま苦笑いを浮かべる。
「……ごめんね……」
「ほのか……」
 ぽん、っとミップルがちいさなぬいぐるみのような姿へと変わる。鞄の上へ着地すると、そのままほのかの顔を見上げた。
「……悲しいミポ?」
 眉が顰ひそめられる。
「どうして?」
「ほのかはなぎさの事が好きミポ。だからなぎさといるとつらくて悲しいミポ」
 息を飲む。
 それから直ぐに口を開いた。
「やだ。なぎさは友達だも――」
「そうじゃないミポ。ほのかはなぎさが好きミポ」
 ミップルがもう一度同じ言葉を繰り返した。今度こそ息も接げなくなった。胸にずん、と重い物が落ちてきたような感覚がした。それが肺を侵食していき、じわじわと苛まれるようだった。
 いつも通りの日常。……それが、少しだけいびつに歪み始める。そんな幻影が視界を覆う。
「ミップルはずっとほのかの一番近くにいたから分かるミポ。……ほのかの悲しむ顔は見たくないミポ」
「…………ごめんなさい」
 目を伏せて、言葉を探すが、何も浮かんでは来ない。口を浅く開いても何も言えなくなる。
 言葉で否定した所で、彼女には嘘など通用しない。それが分かるから、何も言えなかった。
「…………ごめんなさい。……もう帰りましょ」
 無理に立ち上がると、一瞬口を開きかけたミップルが結局何も言わずにコミューン形態へと姿を戻した。それを見つめ、長く息を吐き出す。そして彼女をケースへと戻した。
 夕闇が、ビルに飲まれて行くのが見えた。
 何も変わらない。――このまま。
 このまま、ずっと。
 そう、願っている筈なのに。
 この、胸の支えは、何なのだろう。

◆ ◆

「どうしたメポ?」
 タコカフェで咄嗟にポケットに突っ込んだままになっていたメップルが、なぎさの学生服のブレザーのポケットの中で声を上げた。自宅に着いた気配もなく、突然足を止めた感覚に、疑問を感じたのだろう。
 一瞬間を置いてから、なぎさがコミューン姿のメップルを取り出してフリップをくるりと回転させると、メップルが文字通り顔を覗かせた。周囲を見回すと、やはり自宅マンションではない。通学路の途中の見慣れた夕闇の景色にメップルがない眉根をひそませた。
「なぎさ、どうしたんだメポ! もたもたしてると夕飯に間に合わないメポ!」
「うん……」
 そう返事を返すものの、やはり歩き出す気配のないなぎさに、更にメップルがけしかける。
「モタモタしないでキビキビ帰るメポ! 家はもう直ぐそこだメポ!」
「……うん……」
 切れの悪い返事を返しながら、それでもなぎさは前に進む気になれずに立ち尽くした。進むべきか引き返すべきか考えあぐねて、結局どちらも選択出来ずにいた。
 先程の情景を思い返し、何かおかしな所がなかったかと反芻する。
「いつも通りタコカフェでたこ焼き食べてたら、藤P先輩が通りかかってお話して、練習試合の応援に行こうって話になって、そんで……。ってそんだけなんだけど」
 その後、そろそろ帰ろうと切り出したほのかと一緒に帰って、いつも通り分かれ道で別れた――それだけだ。何も変わった事などない。いつも通り。
 けれど何かが引っ掛かっていた。

 ――それじゃあ、さようなら。

 そう言ったほのかの笑顔。柔らかな笑顔。
「う〜ん」
 なぎさは腕を組んで、これでもかと言う程首を捻るが、やはり何も思い当たらない。原因どころか何をどう引っ掛かっているのかそれすらよく分からないと言った有り様で。
「――私って、バカ?」
「そんなのは分かり切った事メポ! 帰るメポ――!」
 痺れを切らせたメップルの大声に、指を耳栓代わりにして塞ぐと食ってかかる。
「あーもー分かったわよ。もうあんまりぐちゃぐちゃ言うと、ご飯食べさせてあげないからね!」
「わー! なぎさはとっても頭がイイメポ! 知的な表情がたまらないメポー!」
「ったく、調子がいいんだから」
 なぎさはフリップを回転させて、コミューンを閉じてケースに戻すと、自宅へ向けて歩き出した。




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