卒業。 〜Page 1〜


◆1◆

 ――卒業。
 もう少し感慨のあるものかと思っていたけれど、案外そうでもない。その事実――いえ、まるで他人事のようなそんな情調しか持てない自分を、哀れだとも思う。
 寂しい。
 卒業する事が、ではなく、こんなにも情動の欠けた自分を寂しいと感じてしまう事実が、寂しかった。
 御節介やきのやかまし屋。確かに面倒見は悪くはない方だが、それを美点を見てくれる人は教師とかそういった類いの人々であって、私の真に欲する人々ではない。ぼんやりとそんなどうにもならない事を考え、また少し落ち込んだ。友人はいる。聖や江利子や、祥子や、山百合会の皆、クラスメイトたち。彼女たちだって皆、私の事を面倒見のよい人間だと、そう見てはくれているだろう。――時には迷惑な御節介だと感じる事はあっても、決して私を邪険にはしない。
 そう。
 こんなどうしようもない事で落ち込むなんて、馬鹿げている。それを分かっているのに、こんなにも暗い気持ちになるのは、きっとこの天気の所為だ。
 私は早く薔薇の館へ行こうと、少し足の速度を速めた。


  「あ、蓉子! 久し振りぃ」
 相変わらずの少しおどけたような声が銀杏の木の下で届く。
 聞き慣れた声に、ほっとした。――いえ、ほっとしたのではなく、正直に言えば嬉しかった筈だ。
「聖。どうしたの?」
「どうしたのは、御挨拶ね。授業がないからって家でごろごろしてるのもつまらないし、ちょっと皆の顔でも見に来たのよ」
 そう言うと聖は私を通り越して、先へと足を進める。あと一週間で卒業かあ、などと独りごちている。
 交わした視線は数秒もない。――そんな事を気にしている自分が、堪らなく空しかった。
 今日の空のようだ。曇天が広がり、冬の凍えた風が身体を刺す。薔薇の館はさぞ暖かいことだろう。
 だが最早直ぐに足を向ける気がしなくなり、どこかで時間でも潰そうかと考えた時だった。
「蓉子、早く来なよ。どうせ薔薇の館へ行くんでしょ? 置いてくよ」
 数歩送れた私を振り返る、彼女のそんな何でもない言葉に、胸が締め付けられた。

 違う。
 違うと、そう思いたかった。
 この気持ちはまやかしだ。そうでなければただの勘違いなのだ。
 そう思って気持ちに蓋が出来ればどんなに良かったか。

 どうせなら、私なんかに気付かないで行ってしまえば良かったのに。皆の元へ。志摩子の元へ。祐巳ちゃんの元へ。
 そうすれば私は、あの狭い箱庭で仕事に追われる振りなんかせずに済むのに。
 人の気も知らないで。
 私は知っている。殆ど関係ありませんという顔をしている癖に、志摩子を見る目が慈愛に満ちている事も、祐巳ちゃんが可愛くて仕方がない事も。
 馬鹿げている。彼女の友人に嫉妬するなんて。彼女たちは女性だ。でも――、
 聖は同性愛者なのだ。
 聖が、そうでなければ良かった。
 そうでなければ私がこんな風に誰かに嫉妬する事も、叶う筈のない願望を持つ事もなかったのに。
「ちょっと、蓉子聞いてる?」  聖の声が頭の上から降って来る。私は慌てて視線を少し上に向けた。すると整った顔立ちの苦笑がこちらを見下ろしていて、ドキリとさせられた。
 しかしそんな事はおくびにも出さず、素知らぬ顔をして前を向く。
「ああ、ごめんなさい。ちょっと考え事をしていたものだから」
「ちょっと疲れてるんじゃない? 受験はもう終わったんだから、もうちょっと気を緩めたら?」
「あら? 気を張っているように見える?」
「私よりはね」
「そりゃ聖と比べれば誰だって気を張ってるように見えるわよ。ああ、でも祐巳ちゃんは別かも」
 私がそう言うと、聖は本当に楽し気な笑みを見せて、笑った。
「確かに!」
 そう言いながら、私の肩に手を置く。
 それだけで舞い上がりそうになる気持ちを必死で抑え込む。
 ――人の気も知らないで。

 聖は私の、彼女に向ける気持ちなど知りもしないだろう。
 同性愛者など世に多くはない。それに聖はそういった話をしがたらないし、私も敢えてそういった話題を振る事はしない。江利子もまた然りだ。
 だが、私は厳密に言えば同性愛者ではない。初恋は同級生の男の子だったし、聖以外に女性に好意を持った事はなく、これからもないだろうと思う。聖への気持ちを卒業と共に吹っ切ってしまえば、またいつか男性を好きになるのかもしれない。

「蓉子は……」
「え?」
「身長、高くないよね」
 脈絡のない言葉に、苦笑する。たまに彼女はこんな風に突然脈絡のない事をぽつりと言う。出会ったばかりの頃も、あれから色々と変わった今も、たまに彼女の真意が分からない時がある。それを知りたいと思うのは傲慢でしかない事も分かってはいた。
「何言ってるのよ。あなたが高いんでしょ。私は低い方じゃないわよ?」
「何センチ?」
「163」
「へえ」
「あなたは?」
「169」
「……伸びたの?」
 驚いた私がそう言うと、逆に驚いた顔をして聖が私を見下ろした。
「蓉子……よく分かったわね。もしかして私の身長覚えてたの?」
 しまった。
「……たまたまよ。だってあなた検診結果、薔薇の館の机に散らかしておくんですもの」
「あー。そっか。見たんだ」
 またしてもドキリと心臓が跳ねる。
「何を言っているの。散らかしておく方が悪いんでしょ。それにわざと見たんじゃなくて、たまたま目に入ったのよ」
 言い訳がましくはないか。そんな事を気にしながら言葉を選ぶ。
「ま、いいけどさ。見られて困るもんじゃないしね」
 そう言い切れる所がうらやましい。
 身長くらいは構わないが、体重や3サイズなどは勘弁して欲しい。私は聖とのサイズの違いを思い返して、小さく溜め息をついた。
「何、溜め息なんかついてるのよ」
「……何でもないわ」
「蓉子は、隠し事結構多いよね」
 ――ま、私程じゃないけど。
 そう続けると聖は私が問い返すのを拒むように、勢いよく薔薇の館の扉を開けた。
 結局、どこかで時間を潰す事も出来ずここまで来てしまった。
 少しでも聖と一緒にいたかったのだと自覚すると、なんだかおかしかった。――吹っ切るつもりでいたのに。
 ただ、聖と一緒にいて、こうして二人きりでいれたからこそ、鬱々と沈み込まずにいれたのだ。沈む暇もなく、やはりどうしようもなく嬉しかったから。何の脈絡もない話をしているだけで、嬉しかったから。




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