卒業。 〜Page 2〜


◆2◆

「あれ、江利子!」
 薔薇の館の二階に上がると、まさかいるとは思ってもみなかった人物が一人お茶をすすっていて、聖が素頓狂な声を上げたのも頷ける。二年生や一年生の誰かしらいるだろうとは思っていたが、まさか江利子とは。
「あら、白薔薇さまに紅薔薇さま、ごきげんよう」
 少し機嫌の悪そうな声が返って来る。
「久し振りに登校してみて、誰かいるかと思ったら誰もいないんだもの。独りで待ちくたびれちゃったわ」
「はは、ごきげんよう、黄薔薇さま」
 そう言う聖にならって私もかつての名で江利子を呼ぶ。
「ごきげんよう、黄薔薇さま」
 ロサ・フェティダ。そう呼ばなくなって久しい。
 少しくすぐったい感じがして忍び笑いを漏らすと、私につられたのか二人も笑みをこぼす。
 私たち三年生だけで集まるのは久し振りだった。気の置けない友人二人との空間が酷く懐かしかった。
「でも残念。私はもうそろそろ行かなくちゃ」
 江利子がちらりと腕時計を見遣るのを横目に見て、私たちも席につく。
「何か予定でのあるの?」
 私がそう問うと、聖が人さし指を目の高さにまで上げ、ち、ち、ち、と舌を鳴らした。
「野暮な事言わないの、蓉子」
 そう言われて、ああ、と合点した。
「これからデート? おうらやましい事ね」
 冗談半分本音半分でそう告げる。
 すると江利子は満更でもない顔をして、まあね、と言った。その得意気な顔を見てほっとする。やはり友人が幸せそうにしているのは、それだけで何だか嬉しいものだ。
「全然時間ないの? お茶、入れ直すわよ」
 私がそう言って荷物だけを置いて席を立つと、後五分くらいなら、との返事が返って来たので、ちらりとカップの中身を見遣った。透き通った紅茶がカップの三分の一程残っていた。
 ……いつものやつでいいか。そう思った所、彼女の声がそれを制した。
「私の分はいいわ。自分と聖の分だけ入れてあげて」
「そう? 聖はコーヒーでいいの?」
 会議などで山百合会の多くが集まっている時は、聖は皆に足並みを揃え紅茶を飲んでいるが、三年だけになると、コーヒーを飲む。その違いは恐らくお茶の準備をする人間の違いだ。コーヒーと言っても聖が好むのはドリップで、インスタントは余り飲みたがらない。ドリップは時間も手間も掛かるので、恐らく遠慮しているのだろう、下級生に対しては。
 最近の聖は私に対しては遠慮した事は殆どない。
 ……まあ、私が勝手に御節介をやいているだけなんだけど。いえ、二人っきりの時なら、祐巳ちゃんには遠慮してないのかも。
 そんな穿った考えをして、溜め息が出た。
「美味しいのお願いね」
「はいはい」
 聖の飄々とした声に、私は努めていつもと変わらぬ声で返事を返す。
 しかしそんなに技量を問われても困る。精々焦らずにじっくり入れてあげるだけだ。私は紅茶派でそんなにコーヒーの味は分からないんだから。
 使い古されたケトルに水をはり、コンロに掛けた。戸棚からコーヒーのパックを取り出しながら、たまにはわたしもコーヒーを飲もうかとそんな気紛れを思った。

「で、山辺先生とは順調?」
「まあね」
 せっかく久々に江利子に会えたのだからと、湯が沸くまでの間は側にいようと給湯室から戻ってくる時に二人の会話が聞こえた。
「それはそれはよござんしたね。独り身は辛いなあ」
「あら、そう言うなら聖だっていい人見つけたらいいでしょ」
「はは、簡単に言うなあ」
 どうともとれる言葉を吐いて聖が笑う。
 彼女の性癖に関わる話は皆の前ではあまりしないようにしているが、彼女も私たち二人に気を許しているのか、曖昧ではあるが、正直な感想を言う。
「いいじゃない、あなたもてるんだから」
 だから私もそう言った。半ば、自分の気持ちを当てつけて。
 すると聖はちらりとこちらに視線を寄越したかと思うとすぐに逸らし、徐に頭の後ろで腕を組むと伸びをしながら言った。
 声音は至って明るかったが、彼女のその一連の仕種に、失言をしたと思った。
「ミーハーに騒がれるのは好きじゃないもん。本当に好きな人じゃないと、ね」
「……そう」
 彼女を傷つけたかもしれない。謝りたくなった。でも謝罪の言葉なんて更に彼女を傷つける気がして、とても言えやしなかった。
 その時江利子が聖と私の顔とを順番に見て、それから私に声をかけた。
「蓉子、そろそろお茶が沸くんじゃないの?」
「ああ、そうね」
 私は給湯室へと踵を返した。
 しばらくすると、二人の話す声がぼそぼそと聞こえて来たが、内容までは分からなかった。

 しばらくして江利子は帰っていった。嬉しそうな顔をして。
 当たり前だ。これからデートなのだから。
 だが、程なくして彼女の笑顔の直接の原因がデートではないことが判明したのだった。




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