卒業。 〜Page 3〜


◆3◆

「私は少し江利子を見くびっていたかも知れない」
 江利子が私たちの見送りを堅く辞退して薔薇の館を去った後、嬉しそうに聖が言った。
「見くびる?」
「そう。付き合いは長いのに、本当に相手の事が分かっていなかったのは私の方かもしれないな」
 私へ言っているのか、それとも単なる独り言なのか、江利子の去った扉を見詰める横顔からでは判然としなかった。
 やがて振り向いてテーブルに腰を下ろすと、彼女は私の煎れたコーヒーに口をつけた。
「私は正直なところ、見くびれないのは蓉子の方かと思っていた。優等生で生真面目で仕事も完璧にこなすし、良く気が付くし」
 ――と、そこで聖は初めて私に目を向ける。
「でも違ってた。……江利子はよく人を見ているよ。私や、蓉子以上にね」
 愈々何の事か分からず私は首を捻った。
「ねえ、一体何の話なの? 私がいない間に江利子と何を話していたのよ」
「……知りたい?」
「ええ」
「でも、まだ内緒」
「じゃあ、まだって事はその内教えてくれるのね?」
 念を押すように訊くと、聖は悪戯をする子供のような楽し気な笑顔で頷いた。
「その内――、学校を卒業しても、蓉子が呆れず私と一緒にいてくれたら……ね」
「――――」
 思わず言葉に詰まった。
 卒業を控えてずっと心中で蟠っていた不安に触れられ、更に一緒にいてくれたらなどという台詞に思考まで止まる。
 私は彼女から少し離れた斜向いの席に座ると、みるみる紅潮していく頬を隠す為に、慣れぬコーヒーに口を付けた。
「何言ってるのよ。いつまでも面倒なんて見ないわよ」
「みてくれないの?」
 残念、と呟く聖の顔を正視出来ないまま、更にコーヒーを飲み込んだ。味など分からない。
 学び舎という箱庭を卒業しても、本当に彼女と一緒にいられるのだろうか? 地元の小学校を卒業してリリアンの中等部に入学してからも、地元の友人とはそれなりに連絡を取り合ってはいたが、何も変わらぬままという訳にはいかなかった。それなりに疎遠になる者もいたし、そうでなくとも、会う回数も格段に減った。
 そうならない保証などない。
 コーヒーカップ越しの彼女の表情からは、何も読み取れなかった。
「あの……聖」
「ん、何?」
「あの……、さっきはごめんなさい」
 そう言うと聖は何の事、といった風に目だけで問う。
 私は先程の、聖はもてるのだから、と揶揄した発言を指して言ったのだが、本人がそれに気付かないのであれば、わざわざ蒸し返す事もないと、首を振った。
「分からなければ、いいの」
「――さっき、江利子に言われちゃった」
「え?」
 突然の話題の転換は彼女の得意技だが、いつもはただ受け流していたのに、今回ばかりは思わず首を捻った。
「何?」
「また、同じ事くり返すなって」
 聖はコーヒーカップをソーサーに戻すと、テーブルに視線を落とし、そのまま言葉を続けた。
「……昔の私なら、そんな事言われようものならカンカンに怒ってたけど。……ま、江利子とも付き合いは長いしね。何にも知りません、って顔して、一番良く見てたのかも知れない」
「……聖?」
 思わず名を呼ぶと、彼女が顔を上げてこちらを見据えた。
「後悔は残すな、って」
 真直ぐな瞳に射抜かれ、鸚鵡返しに言うしかなくなる。
「……後悔……?」
 聖は戸惑った表情を浮かべている私にくすりと笑いをこぼすと、頬杖をつく。
「確かに後悔するのは……懲り懲りかな。江利子に言われるとは思ってもみなかったけど。――と言う訳で! 蓉子は後悔しそうな事ある? 卒業しちゃう前にやり残した事は?」
「え?」
 突然の事にドキリとした。こちらに話を振られるとは思ってもみなかった。
 けれど。
 やり残した事。
 目の前にそれがある。
 佐藤聖――彼女が目の前にいて。他に誰もいない。
 江利子――後悔――やり残した事――彼女の言葉の何一つとして、何を言わんとしているのか分からなかったが、単語の意味くらいは分かる。後悔。――するのだろう、このまま。卒業して、何もない振りをして。精々友人のまま。卒業して。これからも、時々は会って。会ってくれるの? 本当に? 一緒になんていられるの?
 ――聖。
 二人きり。
 あなたの事が好き。
 喉元まで出掛かるが、言えずに口を引き結んだ。
 言ってどうなるというのか。そんな事を言ってしまえば友人のままでさえいられなくなってしまうというのに。
「こ……後悔なんて、ないわ。卒業して、後は大学へ行くだけよ」
「……そう?」
「ええ」
「そっか」
 私が味の分からぬ最後のコーヒーを飲み干したのと同時に、聖が立ち上がってエアコンのスイッチを切った。
「帰ろっか」
 それは最後の言葉だ。
 私と、聖の。
 ゆるゆると立ち上がり、自分のものと聖と江利子の残したカップを取り上げ、給湯室の流しで洗い流した。――この想いも一緒に、流れてしまえばいいのに、と思った。
 それからコートを羽織って鞄を取り上げた時に、淡々と彼女が言った。
「ちょっとさ、私の後悔の為に付き合ってよ。――教会まで」

 これ以上、私に栞さんを恨ませないで。

 そんな言葉すら、吐けない自分を、
 ――呪うしかなかった。




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