卒業。 〜Page 4〜


◆4◆

 ぎい、と侵入者を拒むような重厚な音がして、教会の扉が開いた。まだ施錠されていなかったらしい。されていれば良かった。そうすれば聖と栞さんの思い出など、目の当たりにしなくて良かったのに。
「良かった。まだ開いてた」
 そうほっと息をつく聖の後から入り込んで、扉を閉じた。私の最低な願いに鉄槌を下す音が、扉を閉じる音となり、バタンと響き渡った。
 そして静寂に支配される。
 中央の通路を聖の背中が進んで行く。その背中に抱きついて、彼女の思い出を塗りつぶしてしまいたかった。
 けれど出来る訳がない。
 彼女は今でも栞さんが忘れられないのだ。だからこそ、『後悔』しないように、この場所へと来たのだ。それが分かっているからこそ、嫌という程分かっているからこそ、そんな事出来る訳がなかった。この手で彼女の思い出を塗りつぶすなんて。
 所詮、私には彼女を傷つける事なんて何一つ出来やしないのだ。このまま黙って、彼女がもう戻らぬ思い出と再び見(まみ)えるのを見届けるしか出来ないのだ。
 やがて、通路の途中で聖が足を止めた。私は結局一歩も動けずに、扉の前に立ち尽くすしかなかった。
「……忘れようと思っても、出来なくてさ。どんなに知らない振りしてても、思い出すと――辛かった」
 聖は祭壇を見上げるようにして、誰にともなく呟く。
「……でも、周りに皆がいてくれたから、私は変わる事が出来た。今は山百合会に入って良かったと思うよ。皆に会えて……祐巳ちゃんや……志摩子や……、……皆に。でも……」
 そう言って聖は言葉を探すように俯いた。
 俯いて探しているものは、何?
 曾てこの場所にいた栞さん?
 あなたがあれ程までに愛した――栞さん?
 もう彼女はここにはいないのに。
 ぎり、と拳を握った。
 逃げ去りたい衝動に駆られながら、それでも目が逸らせなかった。――あの人の背中から。たった一秒ですら、目が逸らす事が出来ない。
 だって、ずっと見て来たから。
 どんなに拳を強く握っても、ずるい思考から逃げだせない。あの人が聖の前から去った後、近くにいたのは自分だという自惚れが消え去ってくれない。それどころかそんな自惚れに縋って、振り向いてくれやしないかと熱望している。
 けれど彼女と私との間には見えない壁が立ちはだかっていた。冷たい冬の空気にさらされても尚破られる事のない壁。彼女が遠く感じた。しん、と冷えた教会のこちら側に取り残された気がした。
「でも――――」
 聖が顔を上げた。
 何かを決意したように祭壇を見上げている。
 私は自分の膝から力が抜けて行くのを感じた。
 このまま気絶してしまいたかった。
 聖が振り向く。
 ポケットに手を入れたまま、ゆったりとした足取りで振り向いた。

「蓉子。好きだ」

 さらりと。何でもないように。

 頭が真っ白になった。

「愛してる」
 私は首を振った。
 その否定を、聖が微笑みで打ち消す。
「江利子に、好きなら好きって言えって言われたんだ、あの時。それで、もう二度と後悔するなって。まさか江利子が私の気持ちに気付いてるなんて思いもよらなかったから、びっくりした」
「……んな」
 再度私は首を振ると、自分を支えきれなくなり、扉に背を預けた。ぎし、と古い扉が悲鳴を上げた。
「だって、あなたは、栞さんの事が……まだ」
「忘れてないよ。――多分、一生忘れられないかもしれない。だから、ここに来たんだ。ちゃんと、けじめをつけに。――蓉子」
 聖が足早に通路を引き返してくるのが見える。逃げ出したい気持ちと混乱とで、本当に倒れそうだった。
「蓉子」
 その時、倒れる寸前で、聖の腕が私を引き上げた。
 気が付くと、私は彼女の腕に抱き締められていた。息が止まる。例え、冗談でさえ彼女が私に抱きつく事など一度もなかったのに。本当は――何度祐巳ちゃんを羨んだ事か。
「聖……」
 腕に力が入らない。
「蓉子」
 何度名前を呼ばれたのだろう。混乱してそれすら分からなかった。
 必死に聖の背に腕を回そうとするのに立っているのがやっとで、全く力ない膝で聖に倒れ掛かる。それを聖が抱き留めてくれた。
 涙が出そうだった。
 この感触が嘘でない事を確かめたくて、精一杯彼女の背中に腕を回した。初めての感触に胸が締めつけられる。
「……本当はこのまま卒業しちゃおうって思ってた。また……誰かを縛りつけるくらいなら、もう誰も好きにならないようにって。だから、蓉子の事を好きになっても、このまま、友達でいようって。でも、江利子が言ったんだ」
 腕の中で聖を見上げた瞬間、私を抱き留める彼女の腕に力がこもった。
「あの子なら大丈夫なんじゃないの、って……」
「……それが、私……?」
「うん。だから…………江利子がお墨付きくれたんなら、大丈夫なのかな、って」
 友人――悪友の名に、力が抜けた。
 去り際、彼女が残した微笑みの理由が、今やっと分かった。
 何も知らない顔で、こっそりと人の行動を見て楽しむような悪癖があるのを今更ながらに思い出す。
「さすが江利子……。私には、全然……分からなかったのに」
「分からないように振る舞ってたんだよ」
「…………まんまとだまされたのね、私」
「……うん。蓉子」
「聖…………」
 少し身体を離そうとすると、聖の腕が緩められた。その瞬間やはり膝に力が入らず、支えようとする聖と二人、床に頽れた。
 二人して笑った。
「聖。…………きよ」
「…………聞こえないよ」
 耳元で囁かれた声に、思わず身じろぎする。それを掴まえて、聖が笑った。
「聞こえるように言ってよ」
 私は耳まで赤くなりながら、顔を隠す為に聖の肩口に顔を埋める。
「好きよ、聖」
 そう精一杯告げると、腕に力が込められた。
「愛してる、蓉子」
 同じように耳元で囁かれた声に、身体が震えた。――確かに、好きという言葉では足りない気がした。
「……愛してる、……聖」
 そう呟くと、聖が顔をこちらに向ける気配が分かって、私も顔を上げた。
 視線を交わすよりも早く互いに欲するものが分かり、求め合うままに唇を重ね合わせた。生まれて初めての感触に少しだけ戸惑ったが、直ぐにそんな事は忘れてしまった。彼女の唇の感触に、感覚の全てが支配されてしまう。柔らかな感触に、今度こそ本当に全身の力が抜けた。扉にもたれ掛かるように背を預けると、それを追って、覆いかぶさるように聖が私を抱き締めた。
 その時、息を継ぐ間に彼女の舌が遠慮がちに唇に触れた。
 私は一瞬躊躇してから、浅く唇を開く。するりと滑り込んできた舌が私の舌を求めて蠢いた。
 どうしていいか分からずにいると、腕に力がこもり引き寄せられた瞬間に押し倒されてしまう。石畳に頭をぶつけないよう、聖が私の頭を抱いた。思わず吐息がこぼれた。
「ん……」
「蓉子」
 唇を離さないまま、早口に呟かれる。
 と同時に、ぐいと喉元のマフラーを引き下ろされた。覗いた首筋に唇が下りていく。
「……せ!」
 言葉にならない声を、刺激によって摘み取られる。首筋を辿る舌先に完全に言葉を奪われてしまった。
「ん…………!」
 言葉の代わりに腕で彼女を押し戻そうとするが、先程から力が入らなくなっていたから、全くの無抵抗と変わらなかった。聖は押し戻そうとした私の腕を取り、それを床に押し付ける。私は少し怖くなった。
 ここは教会であり、放課後とは言え学園内にはまだまだ生徒がいる。シスターだってそのうち見回りに来るかも知れない。――そんな中で聖は何をするのか。
 必死に思考を巡らせる間にも、聖の口付けは止まず首筋を這い上がり耳を舐られた。愈々思考が麻痺していく。
 それでも理性が抵抗をする。
「だめよ、聖。いや……」
「愛してる、蓉子」
 まるで呪文のように繰り返し、コートのボタンに手を掛けられた。
「だめ……んッ」
 耳への刺激に身体が震えた。
「蓉……子」
 荒くなった吐息で紡がれる名。
 その時、私は突然に理解した。――これが彼女なのだ。感受性が人よりも敏感で周囲からの不用意な接触を嫌悪している癖に、一度誰かに好意を持つと、却ってそれが抑えられなくなってしまう。それでいて繊細で、ガラスの様に脆い人。
「せ……、だめ」
「嫌だ、蓉子」
 もう一度キスで口を塞がれた。先程のねだるように甘えるキスとは違う。今まで経験のない自分にだって分かる。むさぼるような荒い口付けに、戸惑いと恐怖を感じた。
 それでも聖の抱擁に身体が震えた。素肌を辿る唇ではなくその腕の抱擁に――。
 多分、この恐怖は聖への恐れではない。
 未知なる行為と、再び彼女が傷付く事への恐れだ。もう一度誰かに拒まれたなら、彼女は本当に壊れてしまうかも知れない。
「聖……」
 彼女は震えていた。愛おしげに頬を包む手が、震えていた。寒さの所為じゃない。
 私は頬に触れる彼女の手を自らの手で包むと、出来る限り優しい声で言った。
「愛してるわ、聖。……でも、だめなの」
 そう告げると、はっとして突然彼女の愛撫が止まった。ゆるゆると顔を上げる彼女の顔は悲壮なまでだった。どうして、と一度口を開きかけるが、そのまま閉じられ、別の言葉が告げられた。
「……ごめん、蓉子」
 緩慢な動作で立ち上がり、背を向ける彼女。
 遅れて私が立ち上がると、もう一度謝罪の言葉を繰り返し、躊躇ってからマフラーを巻き直してくれた。
 そして扉に手を掛けた。
 私は、再び遠くなりかけた彼女の背中に向かって、酷く緊張をしているのを自覚しながら、静かに告げた。
「薔薇の館に行きましょう」




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