Touch me softly ~SCENE 1~ |
ふっと、目覚ましなしで目が醒めてしまった。二、三度瞬きをしただけであっさりと覚醒してしまう。連日の激務のお陰で溜った疲労は全く取れていないのに、いつまでも眠りこけていられない自分を正直恨めしく思う。
――否、疲労が溜っているからこそ、自ずと眠りが浅くなるのか。 静留は横になったまま、首だけ少し動かし時計を見やる。6:15。 首を元に戻し、天井を見上げ、右手で額を押さえる。 一瞬、ある感覚が首を擡げるが、それを努めて努めて無視する。 そして、無理矢理に覚醒したばかりの頭で今日の予定を素早く組む。登校したら生徒会室に行き、溜った書類を片付けねばなるまい。その後ミーティングをして役員に細かな指示を与える。やはり最優先事項は、一般生徒の不安を取り除く為にも一日も早い普段通りの生活に戻るように、規律と風紀面をどうにかしてやる事か。まあ、それについてはやる気のある適任者がいるからいいとして。蝕の祭後ようやく二週間が経過したが、未だ半分程しか戻っていない生徒達は、まだ不安も多い事だろう……。それどころか教職員も全員は揃わない。……そうだ、修繕工事の見積もりは―――― 「あかん」 結局、二度寝など到底出来そうにない。 勢いづけて上体を起こし、目覚まし時計のセットを解除する。そして――、 意識するまい、と固く誓った存在へと視線を向ける。否、本当は視界には入れるまいと思っていたのに、見てしまった、という表現が正しい。 となりのベッドに、なつきが眠っていた。 住んでいたマンションが大破してしまった彼女は、祭の後しばらくは鴇羽舞衣の部屋で寝食していた。静留の想いを知るより以前の事であるなら、当然のように静留の部屋に転がり込んで来たであろうが、何となく互いに気まずく暗黙の内に舞衣の部屋へと転がり込む事になっていた。 それが昨夜、ふらりと日本酒を買い込んで来て、酌をさせろと上がり込んで来た。なつきは日本酒は口にはしない。殆ど酒全般弱いのだから当然だ。 そして、そのまま静留の部屋に泊まり込んだのだが、元々静留の部屋にはなつきの私物が増えていたから、別段困る事は何もない。 ただ一つ、静留の気持ちを除いては。 どうしたって、胸に広がる想いを抑え込む事が出来ない。 膝を抱き寄せ、額を膝に押し付け、下唇を噛む。――あかん。 あかんあかんあかん。 強くベッドカバーを握り込み、気持ちを抑え込む。 だが。 深く長く嘆息すると、覚悟を決めてもう一度隣のベッドを見る。そこにいるのは無防備な姿で眠る彼女。掛布団を蹴り上げ、シーツを乱し、コットンの開襟パジャマの裾を捲り上げたなつきが穏やかな寝顔をして眠っている。 「……あかん。風邪引くやないの」 もう何度呟いたかすら分からない嘆きをもう一度繰り返すと、ゆるゆると立ち上がる。隣のベッドへと近付き、一瞬躊躇った後、掛布団に手を掛けた。 なつきの脚が乗っているので、力を込めて引き寄せる。どうせこの程度では目を覚まさないのは承知の上なので思い切り引く。 もう何度もやり慣れた動作だ。 なつきが静留の寮に泊まろうと、静留がなつきのマンションに泊まりに出掛けようと、どちらにせよなつきの寝相が悪い事には変わらない。お陰で風邪を引くやもと隣のベッドが気になり、ただでさえ浅い眠りが益々浅くなった。 ただ、以前なら気にならなかった、然して意識する事のなかったその動作に今になって一瞬躊躇いを感じたのには、ただもうそれだけで胸が痛んだ。もう邪気のない振りをして無防備な彼女に触れるのは無理なのだ。――もう以前のようには戻れない。 静留は極短い溜め息を吐(つ)くと、布団を全て引き寄せた。 すると剥き出しになったなつきが意識のないまま、早朝の冷気に身体を震わせた。 静留は手早く布団を広げ直すと、丸くなって眠るなつきの身体に掛けてやり、腕を伸ばして彼女の身体に沿って手を置いていき冷気を抜いてやる。案の定、なつきは起きる気配もない。手前側の空気を抜き、そしてまた再び躊躇いを感じながら、ベッドの縁に膝を乗せなつきの上に覆いかぶさるようにしながら、反対側の空気も抜いた。……ゆっくりと……丁寧に。 自分の髪がなつきを覆う布団の上にはらりと落ちる。 触れ合う箇所。 そこをじっと見つめる。 限界やわ。 二人の垣根。 こんな事にすら罪の意識を感じずにはおれない、垣根。 高い、と言うより――、厚い。 だが自らの手で破壊した垣根は、もう一度繕ってみた所で脆い。あっさりと毀せるのに、毀してはいけない。もっと、強固で堅牢な垣根を立てなければ……。 不意に曾て愛した和歌を思い出す。 玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする 少し笑む。 うちの緒ぉは切れてしもた。――あん時になぁ。 でもまたこうして生きとる。 なんでやろね。 なんでまたあんたの側におるんやろか。 「なあ……、なつき……」 我知らず呟いた声は擦れていた。 ながらえてしまったから、こんなにも心が脆くなってしまった。 ――はらり――とまた一房髪が落ちる。 なつきの寝息は穏やかだった。 なつきの丸まった身体の両側に腕を突いて見下ろすこの距離では、すうすうと規則正しく繰り返される寝息をひと呼吸も漏らさず聞き取る事が出来る。 動かない。 静留は動けない。 ただじっとなつきの寝息に聞き耳を立てるしか出来なくて。 肩が震えた。 早朝の冷気が起き抜けの身体を冷やす。 それでも動けない。 柔らかな唇。 それを見ながら天秤を測る自分がいる。 是か否か。 また、笑む。 なつきは起きない。 寝起きの悪さはよく知っている。 少し、首を傾ける。――髪が落ちた。なつきの頬に。 それでも、起きない。知っている。 知っている。 ゆっくりと瞳を閉じると、 起き上がった。 上体を起こし、ベッドの縁に腰掛ける。その所為でマットレスが沈み、なつきのまつげが震えた。小さく、う、と漏れる声。 静留はそっと手を伸ばすと、なつきの黒髪を一筋さらう。愛おしげに指を通すと、それをなつきの肩の後ろへ流してやる。 「……随分辛抱してるんやから、こんくらいは許したってな」 いつもの手触りに微笑みながら、小さく呟く言葉の身勝手な事くらい分かっている。 疎らだが思いのほか長い睫毛。綺麗な柳眉。きめの細かい白い肌。微かに薫る化粧水の香り。 髪に鼻を近付ければいつものシャンプーの香りだってするだろう。 ――ヘアケア関連の諸々はこの寮にもなつきの自宅にあるのと同じ物を揃えてある。いつ頃の事だかもう定かではないが、当時なつきに知らせず用意しておいたら「よくわたしが使ってる物が分かったな」なんて言うものだから、可笑しくて笑った。そう、随分と苦労したのだ。 買い揃えてみて分かったのだが、一般の小売店では扱っていないような特殊なものばかりで、さすがに驚いた。ヘアケアにしてもそうだが、下着もバイクも凝りだすと切りがない。 「そこがなつきのええ所で、少し困った所でもありますけどなぁ」 ふふ、と笑う。 髪を流し、頬に触れる。少し冷たい。 頬から顎へシャープな稜線を辿り、そっと……親指で唇に触れた。遠慮がちに下唇の縁に触れる。すると全く思いがけず、当たり前の事なのだが、吐息が指に掛かるから。 なつきの吐息が温かくて、思わず人さし指と中指とで大胆に触れた。 はっとして指を離そうとした時には遅かった。 うっすらとなつきの目が開かれた。小さく呻く。 「ん……ん」 だが細く開かれた瞳は開ききる事なく、また閉じられてゆく。 そして再び眠りに落ちるものと静留が胸を撫で下ろしたその時―― 「ん……しず、る……」 名を呼ばれた。 硬直した指は触れたままだ。 「――――」 「しず……、ッ、る?」 もう一度名を呼ばれ、酷くぎこちなく手を引っ込めた。なつきの身体が大きく震えたのが分かった。 「なつき、」 「静留、お前、今なに――」 「堪忍……!」 静留は身を翻し、ベッドを離れた。裸足のまま駆け出し、広くはない寮の中逃げ場を求める。 「おい、ちょっと待て! しずっ、――どわ!」 慌てて追いかけようとして、なつきがシーツに脚を取られ転んだらしい。ゴン、という重いくぐもった音が背後に聞こえた。振り返る事も出来ず、バスルームの把手に手を掛けた時に、待て、逃げるな静留、という彼女の声に呼び止められ、まるで魔法にでも掛けられたように身体が動かなくなってしまった。 すぐになつきが追いかけていた。 足音に脚が竦んだ。 「静留、落ち着け」 「なつき、か、かん――」 堪忍、とすら言い切る事が出来なくて、身体が震え出した。 「静留、落ち着け。いいから――こっち向け!」 なつきの手が肩に触れる。それだけで息が止まる思いがした。 「おい、肩が冷えきってるじゃないか。お前いつから……ああ、いいからこっちを向け!」 最初、自主的に振り向かせようと添えるだけだったなつきの手に力が込められ、肩を引かれる。ぐらりと身体が揺れて、振り向かせられた。 なんとも言えない表情をしたなつきが目の前に立っていた。――秀でた額が赤い。転んで打ち付けたのだろうが、しかし今の静留の目には映らない。ただなつきが目の前にいる事を認識するので精一杯だった。 「なつき……うち……」 「いいから、なんだかよく分からんが、逃げる事はないだろう。ったく寝起きだと言うのに驚かせやがって」 くそ、と額に触れ顔をしかめた。 「で、なんなんだ。お前何をしようと……、あ…いや、何って別にどうだっていいんだが。何のつもりで……って、あ……いや、何だ、その、別に、いいんだがな……」 なつきはしどろもどろになって、顔を赤らめて俯く。――静留がああいった行為をした理由は言わずもがな、である。それを一応は理解しているからこそ、どうも問い質す口調も曖昧になる。 「兎に角だ! ……と、兎に角だな……取りあえず向こうで座って話そう。それから何か羽織れ。風邪を引く!」 肩に触れたなつきの手に力が込められる。少し引き寄せられた。なつきと隣合う方の肩が彼女の肩と触れ合う。じん、と熱が伝わる。 どうしようもなく顔が赤らむのが嫌だった。こんな顔など見られたら死んでしまう。 ベッドへと戻り、なつきに促されて先程までなつきが眠っていた側に腰掛ける。なつきは静留のベッドへと腰を下ろした。そして綺麗に畳まれてベッドに置かれていた静留のガウンを手渡された。 しかし膝に置いただけで羽織ろうともしない静留を見るや否や、なつきは立ち上がってガウンを取り上げ乱暴に広ると、静留の正面から彼女に覆いかぶさるように腕を回して、幾分気遣わし気に優しくそれを肩に掛けた。なつき自身は、辺りを見回して羽織る物が何もないのが分かると、静留のベッドのベッドカバーをずりずりと引き寄せると、それをぞんざいな仕種で肩に羽織った。 「で、一応聞くが、お前何してたんだ?」 顔を赤らめたのは静留よりむしろなつきの方で、怒っているというよりはやはり照れている。 それを認めて、静留は顔を上げた。 しばらく言い淀んでいたが、やがて、小さな声で告白した。 「何かしよいうんはなかったんやけど……、何も下心がなかったとは……言い切れんかもしれへん」 下心という単語に思わずなつきの肩が跳ねる。伺うように静留を見やる。 その視線を真っ直ぐに受け止める事が出来ずに、静留は再び俯いた。 もう一度謝ろうかとも思ったが、一度してしまった事は無かった事には出来ないし、謝罪すら言い訳がましく思えて言葉を飲み込んで沙汰を待った。 「まあ、いい。わたしだって別に怒っている訳じゃないんだ。お前がそうやって気に病む事もない。ただちょっと驚いただけだ。分かるだろう。目が覚めて目の前に人がいれば誰だって驚く」 「でも、うち、それだけやなかったやないの」 「それだけじゃないって……、お前本当に何をしてたんだ?」 静留の自棄になる言葉に思わずなつきの口調が強くなる。 「あんたに――」 「わたしに、何だ」 「あんたに見蕩れてたんよ!」 静留のストレートな言葉になつきの頬が染まる。 「あんたの寝顔に見蕩れて、辛抱できんようになってあんたの顔に触れてたんよ」 「わ、分かったからもういい!」 「いいって何が? うちあんたが眠ってるのをいい事に、うち……!」 「静留……」 なつきが顔を上げると、静留は俯いていた。 「し……」 左手を顔に当て、小刻みに肩を揺らしていた。だが―― 声は漏らさなかった。 声は聞こえなかった。 「しず……」 静留はただ肩を震わせただけで、泣き声も嗚咽も何も漏らさずに泣いた。――否、それを必死に堪えているのか。 時折吐息だけが微かに耳に届く。 「……馬鹿」 なつきはベッドカバーを床に落として立ち上がり、静留の前に跪いた。 静留を見上げる。 そして、――唖然とした。 静留の余りの綺麗さに、――否――美しさに、息を飲んだ。 こんな事ってあるのか、と思う。 泣き顔なんて綺麗なもんじゃないと思っていたから、さてどうやってなぐさめようかなんて頭のどこかで考えていたのに、そんな事もどこかへ吹っ飛ぶくらい、静留は美しかった。 左手で顔を覆い、その隙間から見えた静留の表情は崩れた所もなく引き締められ、泣き顔だというのに気丈で、凄艶で、なんとも清らかな神々しさまで感じられた。ともすれば人間が泣いているのではなくて、端麗な彫像に涙の筋を一筆書き入れたのかと見紛う程だ。 ――何でだ? これが静留か、なんて今更になって驚かされた。 見蕩れているうちに涙が落ちて静留の寝巻きに染みを作った。 それを見てなつきは慌てて手を伸ばし、彼女の頬に手を添えた。 「静留。泣くな。頼むから泣かないでくれ」 両手で静留の頬を包み込む。 「頼むから……な?」 「うち、いややわ。こんなん、卑怯やないの。泣くなんて……」 そう言った途端、一際大きな滴が落ちた。なつきの目の前を落下していく。なつきの胸を何かが締め付ける。 「卑怯なんかじゃないだろ。何でそんな事言うんだ」 「だって、泣いたらなつきが困るやないの。泣いたらなつきはうちの事許さなあかん気持ちになってしまうやないの。そんなん嫌や!」 ――ああ、と不意に思い至る。 静留が綺麗なのはその所為か。 ――強情なんだ。 「何を言っているんだ。許すも許さないも、怒ってないと言っているじゃないか。お前はさっきから何を聞いているんだ」 「誤魔化さんといてや。あんたに優しくされたら、その優しさにつけ込んでしまう。そんなの……」 「わたしのどこが優しいんだ。お前に優しくした覚えなんかないぞ。寧ろわたしの方がお前の世話に――」 「世話なんかの問題やない! うちかてあんたに世話なんか焼いてないえ。うちが勝手にしとる事やさかい、そういうんをありがたがっとるあんたがお人好しなんよ!」 「それならばわたしが嫌がりもしていない事で勝手に自分が悪いと思い込んでいるお前だって、随分と卑屈じゃないか!」 静留が言葉に詰まる。 殆ど口で言い負かされた経験のないお陰で、返ってこんな時どんな顔をすればいいのかが分からない。なつきに頬を押さえられたまま俯くことも顔を背ける事も出来ずに狼狽えてしまう。なつきの視線を感じて、口喧嘩に負けた戸惑いと気恥ずかしさとで、頬の温度が上がって行く。 「……離して、なつき」 「嫌だ」 「お願いやから」 溜まらずに瞳を伏せる。 「……じゃあ、お前はどうして欲しいんだ」 「………?」 「お前が正直に言ったら離してやる」 「なんの事……なん?」 「お前がさっきわたしにしていた事だ。わたしに対してどうしたいとか、どうして欲しいとかあるんだろう」 何の事かと驚いてちらりと顔を上げると、顔を真っ赤に染め上げたなつきの顔があり、こんな時でさえなんとも彼女らしいその反応に少し気が抜けた。 「……なつき、顔、赤ぉおすな」 「うるさい!」 今度はなつきが目を伏せる番だった。 「ほら。言うんだ」 「……うちの本心聞いたら幻滅しはるえ。せやから…嫌や」 「今更何を言っているんだ。お前がどういう事を望んでいるのかは、まあ、なんとなく分かってる。だから、大丈夫だ」 そうは言っても随分と顔が赤らんでいるではないか。なんとなく程度の事でそんなに動揺しているのに、正直な気持ちなど打ち明けられる訳がない。 だから、わざと気安く言った。気安く言うしかなかったから。 「嫌や。これ以上あんたに嫌われとうないさかいね」 それなのに。 「――何を怖がっているんだ。わたしを信用しろ。わたしが一体お前のどこを見て好きだと言ったと思っているんだ」 うっすらとなつきの瞳が開く。 「わたしはお前の全部ひっくるめて、 好きだと言ったんだ」 なつきの瞳がこちらを見ていた。 「なつ……」 「だから、もう少しわたしを信用しろ」 「嫌やわ……」 「おい、これ以上――」 なつきの声が途切れる。 静留の瞳から大粒の涙が止めどなく落ちてゆく。 「嫌やわ、うち、泣きとうないのに……」 「馬鹿……! 泣くんじゃない」 先程とは打って変わり泣きじゃくる静留の顔は綺麗さなんてものとは程遠くて。……なんだか安心してしまう。 ようやく頬から手を離し、なつきは立ち上がって今度はその手を背に回して肩を抱く。 優しく背を撫で、静留が落ち着くまで待ってやる。 それからしばらくして、も、ええよ、と静留がなつきの肩を叩いたのを合図に、そっと身体を離した。 「結局わたしはお前を泣かせてしまうな」 |