A Prelude of Romance 〜Ten Centimeters Distance〜


 ひとりきりの部屋。
 見慣れた1LDK――。この部屋に――麻布十番の街に越してきて2年とちょっと。例え部屋が暗くてもわずかな手探りだけで電気のスイッチも大体の家具の配置もそろそろ分かるようにはなってきた。
 玄関の扉を後ろ手に閉め、壁に手を這わせそちらの方に視線をやらないまま、電気のスイッチに手をかける。
 まだ4時だというのに、秋の息遣いも聞こえるようになったこの頃は、こんな時間でももう薄暗い。外では肌寒くなった風が、緑のまま落ちてしまった銀杏の葉を舞い上げているだろう。
 ――スイッチに手を掛けたもののそれを押さないまま、人気のないしんと静まり返った部屋に、思わず溜息が溢(こぼ)れた。
 誰かと一緒にいて、別れ、この部屋に帰り着くと、たまに……本当にたまにだけれどとても寂しくて居たたまれなくなる時がある。
 思わず、先程まで一緒にいた人の事を思い出す。
 うさぎちゃんと……
 ――――亜美ちゃん。
「…………」
 今、ほんの少しだけ、比べなかった?
 ううん、比べるというより、もっと――
 ――もっと?
 何が?
 スイッチに触れていた右手を握り拳に変えて、壁に押し付ける。
 あたしは何をこんなに焦っているんだろう。
 ――違う。焦りじゃない。
 この気持ちは……。
 もっと、違う感情(もの)だと分かって……。
「亜……」

 Trr――、
 Trrrrrr――……Trrrrrr――……
 突然の電子音に、まことは身体を震わせた。
 ――あたしは今、何を誰の名を呟こうとした?
 静まり返った部屋に、やけに大きく響く電話のコール。
「……出なくちゃ」
 電気のスイッチを入れる前に足を踏み出し、ダイニングキッチンの隅に置いてある電話の受話器に手を伸ばす。触れた瞬間に生暖かい湿り気を感じて、掌に汗をかく程緊張していた自分に気付く。
 受話器を口に当て、一瞬何を言えばいいのかすら分からなかった。
「は、はい、――――木野……です……」
 口籠りながら声にして、これで対応は良かったのだろうかとどこか半信半疑のまま、相手の反応を待つ。
 一瞬の間があって、ようやく受話器から声が聞こえた。
『あの……私、亜美、です』
「――――」
 思わず言葉を失う。
 何故、そんな状態に陥るのかも分からなかったけれど。
 彼女の声を耳にした途端、頭の中が白くなっていく感覚を全身で味わっていた。
 受話器を握る手がまた汗で湿っていく。
「亜美ちゃん……、や、やあ、どうしたの? 何か、用?」
 最後の一言は随分とつっけんどんな言い方をしてしまったと思う。平静を装おうとした事が裏目に出た。
 受話器の向こうで、息を飲んでまた間を置く彼女。
 その「間」にまことはどう仕様もない自己嫌悪を感じていた。
「あの……」
『……そろそろまこちゃん、お家に着いた頃だと思って、頃合を見て掛けてみたんだけれど』
「あぁ……うん。今、丁度家に着いた所でさ。玄関入って直ぐに電話が鳴ったからびっくりして……。あたし変だったろ? ごめんね」
『ううん。……あの、まこちゃん』
「何? どうかした?」
 一言一言を発する内に、少しずつ、いつもの自分に戻れているような気がした。
 うさぎと亜美と……三人で学校からの帰り道を辿りながら、何気ない会話を交わす自分に。
『実は、まこちゃんに話があるの。大事な話が』
「え? ……大事な、話?」
 奇妙な緊張感はなくなったものの、彼女の言葉に、何だろうと息をつめる。
 亜美の声音は電話に出たばかりの遠慮がちなものではなくなり、確りとしたものになっていた。
『まこちゃん?』
「あ、うん。何かな?」
『その、出来れば電話じゃなくて、ちゃんと会って話したいのだけど……』
「あ、そうなの? あたしは今からでも大丈夫だけど、亜美ちゃんは……塾だよね。どうする? 塾が終わってからどこかで会う? 亜美ちゃんの家か――、あたしの家でも構わないし」
 亜美の口調につられるように自分もまた確りとした口調で話す事が出来た。
『いいの?』
 念を押す彼女に妙な引っ掛かりを覚える。
「いいけど……どうかした?」
『ううん、私がお願いしているのにこっちに合わせて貰っちゃって悪いなと思って』
「あぁいいよ、そんな事。亜美ちゃんのお願いだもん。――で、どこにしようか? ウチで良ければ夕飯作って待ってるけど。亜美ちゃんはどうしたい?」
『……そうね、今日は母が夜勤だから、まこちゃんのお家でもいいかしら?』
「分かった」
 亜美の言葉の真意は、母が不在であるので亜美は夕食をどこで採ろうが大丈夫、という事だ。もし母親が在宅していれば一緒に食卓を囲む所だが。
 付き合いも長くなれば、亜美のライフスタイルも分かってくるし、余計な説明はいらなかった。
「じゃあ、夕飯作って待ってるよ。一応塾が終わったら電話して。迎えに行くよ」
『え、いいわよ。悪いわ』
「だめだよ。女の子一人で歩いてちゃ危ないよ。あたしは別に苦じゃないし、……は――えっと、その、気にしないでよ。ははは――」
 笑いで誤魔化した一度言いかけて飲み込んだ言葉は「早く亜美ちゃんに会いたいし」――だった。
 何を。
 ばかみたいだ、あたし。
「……ああ、でも亜美ちゃんが困るって言うなら、やめておくけど」
 言いながら、いつになく押しの弱い事を言っているな、という自覚があった。
『困るっていうか……、でもやめておくわ。ちょっと考え事もしたいし……』
「――――、そう……。じゃ、ともかく待ってるから。それじゃ、また後でね」
『ええ、また後で』
「…………」
 ――コト。
 受話器を置いた手が途端に手持ち無沙汰になって、一、二度軽く握り込めると、また開いて、力なく重力に従った。
「……ああ、電気、点けなくちゃ」
 更に増したような気がする薄暗さにはっとして、ダイニングキッチンの入り口へ戻って電気のスイッチを押した。
 部屋がパッと明るくなる。
 迎えを断られて、感じた……この寂しさは何だろう。

◆  ◆

 ――深く、溜息をつく。  充電器に戻した受話器を両手で掴んだまま、亜美は全身に溜まっていた緊張感までも吐き出してしまおうと、肺の中の全ての息を吐き出した。
「緊張……しちゃった」
 でも、これで後戻りは出来ない、と思った。
 それでいい。いつまでもうじうじしているのは嫌だった。悩むのはもうお終い。
 もうずっと悩んでいたから。もう悩みたくない。
「――よし!」
 亜美は勢い良く顔を上げると、緊張も不安も恐さも振り切ろうと一歩を踏み出した。

◆  ◆

 塾の授業に身が入らない。
 今迄何度か、心配事や悩みを抱えて授業を受けた事はあったが、ここまで集中出来ない事はなかった。講師の張りのある声、ホワイトボードを埋める文字、コツコツと響くひたすらシャープペンシルを走らせる音。――いつの間にかそれらが遠のいて、気が付くと授業が随分と進んでいる事にハッとする。
 ――いけない。
 そう思って授業に集中しようとするが、また直ぐに意識が授業から離れていってしまった。
「亜美ちゃんのお願いだもん」
 彼女の何気ない一言が、頭の中でリフレインしている。
 ――亜美ちゃんのお願いだもん……
 分かっている。
 ただの何気ない一言。
 でも、そう言って自分の我が儘に付き合おうとしてくれる彼女の言葉が無性に嬉しかった。
 きっと他の誰に言われてもこんなに嬉しいとは思わないだろう。
 今ならそれが分かる。
 ……分かるから、胸が締め付けられる。
「亜美ちゃんのお願いだもん」
 無意味でもいい。何度だって彼女の言葉を思い返していたい。
 耳に残る彼女の声。彼女が囁く自分の名前。
 滑稽でもいい。何度だって彼女の言葉を思い返していたい。
 その瞬間だけは苦しさから解放されるから……。

◆  ◆

 苦しさを感じるようになったのはいつ頃からだったろう。
 居心地のいい距離だと思っていた二人の距離を、いつしかいつまでも埋まらぬ平行線の溝だと感じるようになったのは、いつからだったか?
 思い出そうとしても思い出せない。何かそう感じる切っ掛けがあった訳ではなかったから、感情に線引きをする事は出来なかった。

「ねえ、あたしも一緒に行っていいかな? ゲームセンター」

 呼び止められて、そう言われた時、彼女と一緒にいられる事を素直に喜んでいた事を思い出す。
 あれは、二度目の覚醒をする少し前の事。
 D地点(ポイント)の決戦後、再びこの世で「生」を受けた。「死」という抗え得ない筈の暗闇から抜け出すと、目の前にあったのは朝日のような眩しい光と、以前と変わらぬ日常。
 ――自分が一度戦士として死を迎えた事は記憶には残っていなかったし、自分は新たに始まった日常になんら疑問を抱かず、それを「以前と変わらないもの」と思い込んでいたが、どこか小さな違和感と寂寥感がまとわりついていた。
 朝、目を覚ましていつも通りシャワーを浴びて、制服に袖を通し、ひとりで採る朝食。……変わらない日常。
 玄関を出て三叉路の所まで来ると、いつも足を止めて辺りを見回した。……感じ始めた違和感と寂寥感。
 ここで誰かを待っていた気がする。
 待ち合わせて、誰かと朝の挨拶を交わし、学校までの道すがら他愛もない事を話す数分間。
 どうしてそう思うのかは、当時はまだ分からなかったけれど。
 そんな日常を繰り返し、ある日、出会った。
 懐かしいと感じる記憶の欠片。
 ――うさぎちゃん。
 その時は転生したばかりで彼女との思い出は記憶にはなかったけれど、会った瞬間、普段は信じる事のない「運命」を感じた。
 額に三日月を抱いた黒猫――ルナが塀の上から飛び下りて来て、それを切っ掛けにほんの少し立ち話をした。そして彼女にゲームセンターに行かないかと誘われたのだが、塾があったので一度は断って……。でも塾を終え、一人帰り道を辿りながら、何故か彼女の事が気になって、ちょっと行ってみようかとゲームセンターへと足を向けた時。
 「運命」とは違う「絆」のような物を感じた。
 ――目の前に背の高い、柔らかそうな明るい色の髪を結い上げた彼女がそこに、いた。

「あんた確か――……」
 そういきなり言われて、お互い制服は違えど同じ十番中学の生徒だという事は知っていたので、5組の水野亜美です、と自己紹介をした。
「あ、そう、水野さん。有名だもんな。どこ行くんだい?」
 聞かれて素直に、塾が終ったのでちょっとゲームセンターに行くのだと答えた。
「へえ、学校一頭の良い人が、なんか意外だね」
 そんな風に言われてしまうと、いつもなら適当に相槌を打って早々にさよならする所だが、不思議と嫌な気はせず、確かに自分らしくないなと思って、似合わないわね、なんて言いながら微笑んでいた。
 そして彼女にも今どうしていたのかを問う。――興味がなければ、誰かにこんな事を問う事もしない筈の自分が。
「うん……、角の店に飾ってあるドレスを見てきたんだ」
 彼女の応えを聞いて何故だか、彼女らしいな、と思った。確かに。彼女の事など何も知らなかった筈なのに。
 背が高くて、学校指定の制服は着用せず、代わりに着ていた転校してくる以前の学校の制服はスカートの丈が少し長く、一見ガラが悪そうに見えなくもない。そして黒いパンプスに個性を主張するバラのピアス。
 ――木野まことさん。
 自己紹介されなくても彼女の名前は知っていた。
 やがて彼女が片手を挙げた。
「それじゃ」
「――ええ、さよなら」
 それだけだ。
 それだけで別れる筈だった。
 なのに。
「あ、待って、水野さん!」
 突然呼び止められて、振り向いた。
「ねえ、あたしも一緒に行っていいかな? ゲームセンター」

 嬉しかった。

 ゲームセンターまでのたった10分間の道のりが、嬉しくて。
 誰かとこうして肩を並べて歩く居心地の良さを、改めて実感しているような不思議な感覚を覚えたのだった。
 ――その時はまだ、こんなに切なくて苦しい気持ちになるなんて、知りもしなかった。

 朝、待ち合わせの約束をしていた訳ではなかった。
 確かに通学路は三叉路の所で重なりあっていたが、お互い登校する時間は別々だったし、たまにどちらかの時間がずれて一緒になる事はあっても、約束を交わそうという事はしなかった。
 そんな必要はなかったし、いつも一緒にいる事を欲してはいなかった。最初は。
 だけど。
 二度目の覚醒の後、少しずつ何かが変わって来始めた。
 覚醒の所為ではないと思う。
 ただ、なんとなく、変わり始めたのだ。変えたのではなく。
 放課後、皆より早く着いた火川神社の境内で、二人だけで話すちょっとした話。どんな本を読んだとか、どこのフラワーショップがお勧めだとか、花で分かる季節の話とか、日本の気候の雑学だとか、他愛もない話を、二人でした。
 いつしか、ただの会話に敢えて彼女の好む話題を多く挟むようになった。本屋で植物のコーナーに立ち寄るようになったし、以前よりは炊事も楽しくなった。そうすることで彼女との会話が弾んだし、それが嬉しかった。
 彼女もまた、以前よりは勉強に興味が出てきたようだし、少し無理はしてそうだけれど、定期試験は頑張ってくれている。質問があれば気軽に電話をくれるし、必要があれば家に赴いて勉強会をすることもあった。
 何もない。切っ掛けなんて。
 気が付くと側にいて、気が付くと誰よりも近い距離にいた。
 10cmの距離。
 歩いていて肩がたまに触れたり手が触れたり。だからって謝ったりしない。そんな距離。
 いつしか一緒に登校する回数が増えていた。
 何もない。友情以上の気持ちなんて。
 だけど、この満たされているような、それでいてもどかしいような感情は何なのだろう。
 居心地のいい距離――。
 いつまでも埋まらぬ平行線の溝――?
 「友情」と名の付いた川。
 それでいい。10cmの幅の川。川に沿って出来るだけ長く「親友」でいられたなら。

◆  ◆

 10分間の休憩時間が挟まれた。
 次の教科のテキストを準備しながら、ちらりと腕時計を見遣る。6時半――。
 今頃彼女は夕食の準備をしてくれている頃だろうか。
 何も知らない彼女は、親友と自分の為に夕食を準備し、親友の来訪を待っている。何も知らないで……。
「きっと驚くだろうな、まこちゃん」
 誰にも気付かれないような小さな声で呟いて、重い溜息を吐き出す。
「きっと、驚いて……」
 どうするのだろうか、彼女は。
 拒絶することはないと思う。自分の気持ちを打ち明けても、少なくとも完全な拒絶をすることだけはないと自信はあった。――でもそれだけだ。拒絶はない。それだけ。
 そんなものはきっと何の慰めにもならないのだろう、……断られてしまったら。
 あっさりと拒絶して断ち切れてしまうような脆い友情は築いていない。でもそれだけ。埋まらない溝。
 拒絶はない分、ゆるゆると流れる川には決して橋が掛かる事はない。途切れる事もない。ずっと「親友」という少し温めの水が二人の間を流れ続けるのだ。

 ――水。

「水野さん……。水野さん!」
 突然名を呼ばれて、はっとした。
「え?」
「顔色悪いようだけど、大丈夫? この所元気がないみたいだし……」
 顔をあげると隣の席の別の学校の制服を着た見知った少女が、亜美の顔を心配そうに覗き込んでいた。
「ああ、ごめんなさい、ぼうっとしちゃって……。別に病気とかではないから」
「そう? もう直ぐ授業が始まっちゃうし、体調が良くないなら今のうちに帰ったら?」
 亜美はなるべく気を使って微笑み、心配いらないという事をもう一度告げた。
 すると待ち構えていたように始業のベルがなり、数学担当の講師が入って来て早々に授業を開始した。
 亜美も言われたページを繰った。きっとまた何も頭に入らずにこの授業も終わるのだろうと思いながら……。

 「親友」でいられたなら。
 そう思っていられたのは、以前の事。
 今ではもう、「親友」でいなければいけないという気持ちに押し潰されてしまいそうだった。
 この気持ちを押し殺して黙っている事が一番正しくて、良い事なのかも知れない。体面を気にするならそれが一番正しい事なのだ。
 体面。
 社会的な体面。
 そういえば自分はいつもそんな事を気にしていたように思う。
 「天才少女」――。
 いつしかそのレッテルも、煩わしいとは感じても、のしかかるような重さを感じる事はなくなっていったように思う。確かに自分は人より「頭が良い」のかも知れない。その為に嫌でも好奇の視線を浴びてきた。
 その視線を振り切る為に知らぬ振りをして勉強に打ち込んできたが、そんな自分に不安を感じても、目標の為と自らを正当化して、自分の気持ちすら誤魔化してきた。でも返って勉強すればする程周囲との溝は深まっていき、孤独は強く深くなっていった。
 確かに勉強するのは好きだったし、勉強さえしていれば少なくともそうしている間だけは焦燥感は消えた。でも、何も変わらなかった。
 「天才少女」の体面。
 結局こればっかりはいつまで経っても完全に剥がれて消える事はないのだろう。それを自覚した時から、それならば自分は周囲の期待に抗う事なく彼らの望む「天才少女・水野亜美」として生きて行こう、そう思った。そうすれば、――周囲の視線に抗わなければ、抵抗感は少しは和らいだから。
 でも、それをまた繰り返すのか。
 世間に対する体面を気にしてこの気持ちに蓋をして、女の子同士だからいけないという理由の――「道徳」という名の楔を打ち込み、永遠にこの蓋が開いてしまわないように気持ちを押し殺して生きていく。
 そう思ったら涙が出てきた。
 昨夜、浴室でバスタブに身を沈めながら、泣いた。
 シャワーは出しっ放しにして、リビングにいる母にはその声が聞こえないように、泣いた。
 子供の時以来、一度だって泣いた事のなかった自分がこうも簡単に泣くとは意外だった。頭の隅の回路の途切れた部分でそう思っている自分もいて、でも涙は止まらなかった。
 赤く目を腫らしたまま浴室を出て、脱衣所で髪も身体も拭かず鏡の前で己の姿を見つめた。
 酷い顔。
 赤く腫れた目の周りは連日の不眠で酷い暈(くま)が出来ていたし、気力も覇気もなくした無表情な窶(やつ)れた顔は、到底誰にも見せられたものではなかった。肉の薄い弱々しい身体。乱れた髪。頬を落ちて行く無数の滴。
 何もかもが嫌だった。
 会いたい。
「会いた……」
 口にしようとして余りの寂しさに、言葉を飲み込んだ。
 その分胸の中で気持ちが膨らんで行き、裸のまましゃがみ込んで膝を抱いた。
 まこちゃんに、会いたい。
 ただそれだけ。
 こんなにも誰かを欲するなんて今迄一度もなかった。依存している。
 今、彼女を呼び出して会えば気が済むだろうか?
 答えは――そんな訳がない事は解り切っている。
 一時的に会ったからといって、寂しさは薄れるどころか増すだけだろう。今なら解る。
 ――今になって気付いた、気持ちが抑えきれない事に。
「あなたが、好き」
 押し殺して呟かれた声は、行き場を失くして壊れて消えた。

挿し絵

◆  ◆

 ゆるゆると、緩慢な動作でテキストやノートを鞄に仕舞っていく。
 何もわざとそうしているのではなかった。自分で決めた事とは言え、これからの事を思うと気が重かった事もあったが、何より緊張して手が震えてうまく仕舞えなかった。
 手が思うように動かない。
 手だけではなく、腕も脚も油の切れたロボットのように、動かなかった。
 重い腕を持ち上げて時計を見る。7時22分。そして溜め息をついた。
 しばらく下を向いたまま、何も考えず、身体の重さに身を委ねた。
「――――――――」
 顔を上げ、正面を見据える。
「行こう」
 尻込みをする気持ちを吹っ切って、亜美は一歩を踏み出した。

 彼女にこの想いを伝える為に。

 ――電話は掛けなかった。
 1階のロビーの公衆電話を横目に見てそのまま行き過ぎる。
 電話を掛けて彼女の声を聞いて決心が鈍るのが嫌だった。電話越しに彼女の声を聞いたなら、ずるずると気持ちが弛んで、気持ちを伝えられなくなりそうだ。

「――――どうして?」
 発した疑問を、はにかんだ笑顔で受け止める一人の少女。
 ロビーの自動ドアを出て、いつもの自宅へと繋がる左の進路とは逆にまことの家へと向かう右側へと進路を取る。その視線の先に、ガードレールに寄り掛かりながら、ミルクティーの缶を手に佇むまことがいた。
「やあ。お疲れサン」
 軽く右手を挙げる。
「来るなって言われたけど、来ちゃったよ」
「――――どうして……」
 まるで心臓が止まってしまったかのような錯覚を覚える。緊張で、耳が遠くなり三半規管がその役目を放棄して平衡感覚が覚束なくなる。
「やっぱり亜美ちゃん一人じゃ危ないし、それに……来たかったからさ」
「来た……?」
 ――まさかと思った。
「うん」
 と頷き、ミルクティーの缶を呷る。
「――早く亜美ちゃんに会いたかったから」
「ッ……」
 さらりと言ってのけるそんな何気ない言葉。――ミルクティーを飲むように何気なく。
 それを聞いて泣き出すかと思った。
「あまり、びっくりさせないで……」
 掠れた声でそう言うのが精一杯で。
 何気なくそんな優しい事を言わないで。――期待してしまうから。
「もう……。本当に、びっくり……した、わ」
 咄嗟に俯く事しか出来なくて。彼女が何気なく振る舞えば、自分もそうするしかなくて、ただ何でもないように――ただ驚いただけのように、いつもの癖のように手を口元にやり、込み上げてくる感情(もの)を押さえ込んだ。――涙が洪水のように押し寄せてくる。
 随分と涙腺が緩いな。頭のどこかでそう思った途端、ひと粒涙が落ちた。
 不思議とスローモーションのように落ちて行くそれがはっきりと見え、地面に落ちて弾けたのさえ見て取れた。
 だめ。
 必死で込み上げてくるものに抗う。
 たったひと粒だし、彼女には見られていないと思う。でも、俯いたままいつまでも顔を上げなければ不審に思うだろうと言い訳を繰り返した。
「……ごめんなさい。ちょっと、驚いちゃって……」
「ん。……帰ろっか?」
「…………ええ」
 亜美は早足でまことの横をすり抜けると、先を歩いた。
 まことは持っていた缶を自動販売機の横のダストボックスに押し入れると、数歩早足で駆けて亜美に追い付いた。そのまま横に立って歩く。
「鞄……持とうか? 重そうだし」
「ううん。大丈夫よ」
「――そっか」
「…………」
「……」
 無言のまましばらく歩く。
 気を許し合えていたから沈黙も苦痛ではなかったが――今、こうして会うまでは。
 夜の冷え込んだ空気を孕んで、沈黙が重くまとわりついた。
 等間隔で立つ街灯が通りかかる度明るく二人を照らし出し、亜美とまことの横顔を浮かび上がらせる。でも亜美はまことの顔を一度も見なかった。
 ……ふと、前にもこんな事があったな、と思い出す。
 あれは――

 あれは、ブラックムーン一族との闘いの時……。
 ルベウスの暗黒エナジー増幅スティックが暴走して、ベイブリッジに次元の裂け目が出来てしまった日、その闘いを無事に勝利で終えた帰り道だった。
 途中までは皆で一緒に帰り、無事に帰途につけた事を喜び互いを労いながら、闘いの事、今日学校であった事、明日の事、これからの事――、色々な事を話し合いながら復路を戻った。やがて十番街まで戻ってくると家の方向が同じ者同士で別れて歩いた。レイと美奈子。亜美とまこととうさぎ。
 その日は少し遠回りして、うさぎを自宅まで送り届けてから、二人で帰った。
「危ないから亜美ちゃんのマンションまで一緒に行こうね」
 そう言ってまことは微笑んだ。
 うさぎの家からはまことの家の方がより近く、亜美の家まで来ればまことは随分と遠回りになったが、断っても、女の子が夜中に一人じゃ危ないから、と譲らなかった。
「ありがとう」
 そう言って素直に彼女の申し出に従った。
「――でもまこちゃんだって、女の子よ。帰り道、危ないわ」
「亜美ちゃん……本気で言ってる? 誰か襲って来てもあたしなら返り打ちにしてみせるって! ま、あたしなんか襲う物好きなんかいやしないけどね」
 あはは、と笑ってみせて、それから亜美に振り向いてニコっと戯(おど)けたような笑みを投げかけた。
「確かに……まこちゃんなら大丈夫かも」
「え? あ……そうきっちり肯定されると傷付くなあ。やっぱりあたしって女としての魅力に欠けてるのかなあ……」
 がっくりと肩を落として項垂れたまことの背に触れて、慌てて否定する。
「あ、ち、違うの。か、返り打ちの方よ! まこちゃん強いから大丈夫かなって……。それにまこちゃんは……とっても――素敵よ」
「――じゃあ、どこが?」
「え?」
 そう質問で返されるとは思ってもみなかったので思わず言葉に詰まる。
「ホラ、やっぱりあたしに女の魅力なんてないじゃないか!」
「あ、あるわよ! えっと……」
 懸命に考えて訴える。
「お料理は上手だし植物にだって詳しいし、ス、スケートだって上手だし……。皆で行ったスケートの時、すっごくまこちゃん素敵だったわ。まるで風みたいだって私本当に思ったもの!」
「あ、そ、そう?」
 いきなりの亜美の熱弁にいささか面喰らって、まことは照れながら頭を掻いた。
「あ、改めて言われるとなんか照れるんだけど……あ、あははは!」
「それに……優しいし」
「――!」
 真直ぐに見詰められて真剣な瞳(め)をしてそう言われると、照れるどころか、まことは言葉を失って思わず立ち止まった。
「あ、亜美ちゃ……」
 亜美は顔を赤らめて少し俯き、小さな声で呟いた。
「ありがとう……今日、闘っている時、ベイブリッジで……私の事、支えてくれて……」
 亜美はその時まことに触れられた肩に手を触れ、まことの――ジュピターの腕の力強さと温かさを思い返した。
 ベイブリッジで次元の裂け目が出来てしまい、「ブラックホール」とジュピターに評された裂け目はあらゆる物を飲み込もうとセーラー戦士たちにも風圧の歯牙を掛けた。気圧の低い――0気圧の裂け目の中に飲み込まれそうになるのを、各々橋のロープに掴まって必死で堪えた。その時やや体力の劣るマーキュリーを抱いて支えてロープにぶら下がっていのはジュピターだった。
「ありがとう……まこちゃん」
「……いや、と、当然じゃないか。仲間を助けるのは――」
 ――仲間。
「仲間……」
「そ、そう。大事な仲間じゃないか。行こうか、もう遅いから」
 そう言ってまことは亜美の肩を抱き、背中を押して直ぐに腕を下ろした。
 10cmの距離を開けて歩き出す。

 あの時もこうして二人で夜の道を歩いたのだった。
 亜美は触れられた肩がその手が離れてからも気になって、ろくな会話も出来なかった。
 あの時と同じ。
 黙ったまま、二人で歩いていた。
 ただ一つ違うのは、あの時はとても気持ちが満たされていたという事。「大事な仲間」と言われてそれすらも嬉しかった。
 でも今は違う。
 「仲間」「友達」「親友」どの言葉も亜美が欲しているものではなかった。
 満たされない気持ち。
 亜美は立ち止まった。
 いつの間にか車道に沿ってコンクリートで舗装されていた歩道は遊歩道に変わり、土の地肌を覗かせて曲がりくねりながら先へ伸びていた。植樹された木々がさわさわと鳴いていた。人気(ひとけ)はない。
「――亜美ちゃん?」
 亜美が突然立ち止まった事で、まことは数歩行った所で立ち止まり振り返った。二人の距離は10cmどころか1m近く離れていた。
「どうし――」
「私!」
 敢えてまことの言葉を遮ろうとする亜美の強い言葉に、まことは口を噤んだ。
 大事な話。
「…………」
「私――」
 まことは、上体だけ振り向けていた身体を、きちんと亜美の方へ向けた。
 亜美にはまことの足音すら届いていない。
 亜美が捉えている感覚は聴覚も嗅覚も痛覚も触感もなく、ただ唯一視覚がまことを認識しているだけだった。
「あなたが、好き」

 まことは予期していたような予期していたくなかったような、不思議な感覚でその言葉を聞いていた。

To be continued.

★Act.2 「A Prelude of Romance 〜With You〜」★








POSTSCRIPT
あとがき
★続いちゃいます。嫌な所で(笑)
★現時点で亜美ちゃんものすごく報われていませんね。可哀想…。でも亜美ちゃん、好きだと気付いてもすぐには告白しないだろうし、するとしてもものすごく悩むんだと思うんです。ま、話も途中なんで詳しくは言いませんけど。
★次回で一応決着が着く予定。書いてみないと分からないけど。

★途中のゲームセンターが云々のところはカセコレ3からです。カセコレの3はいいですよね〜〜。うんうん。

★それから! 今回のイメージソング。久川さんのアルバム「for you for me」の『この遊歩道(みち)が終るまでに』
★んまあ、別にイメージソングっていうんでもないんですけど、ラストのセリフの「あなたが好き」っていうのがすごく好きで。今回のSSのラストの亜美ちゃんのセリフはぜひ、この曲のラストのセリフ声で読んで下さい(笑)
(※「あなたが好き」ってセリフは曲中に3回出てくるんですが、ラストの声で! メロディーに乗せてるからただのセリフとは違うんですけど、でも感情の込め方とか、すっごくいいんですよ!)
★でSSのラストのセリフはもちろんこの曲から拝借したんですけどね。あ、でも曲自体は別にまこ亜美ソングじゃないです。雰囲気雰囲気。ちなみに久川さん作詞。久川さんの詞ってすごく好き。

★それから…。挿し絵が今回なんだかえっちいですね。いやはや……(苦笑)
★でも今回挿し絵描くなら絶対このシーンだと思ったんで。ん〜でもあんまり切ない絵になってくれませんでした。切ないっていうか「痛い」感じにしたかったんですが、ダメでした。




Waterfall//Saku Takano
Since September 2003