A Prelude of Romance 〜With You〜


 いつからか――
 彼女のその気持ちには気付いていたのかも知れない。

◆  ◆

 電話を切って、室内の明かりをつけ、壁に掛かった時計を見上げた。――午後4時15分。
 亜美の塾の授業が終わるのは夕方の7時30頃だとは知っていたし、それならば夕飯の支度は6時少し前に始めればいいだろう。
 1時間半程度時間が空く。
「……買い物にでも行こうかな」
 冷蔵庫には大した食材は残っていなかった筈だし、どうせ亜美が来るのなら出来るだけ腕に撚(より)を掛けたものを作りたい。自然とそういう気がして、まことは、よし、と気合いを入れた。
 まずは冷蔵庫の中を覗き、一応の確認をする。
「……やっぱり大した物残ってないな。う〜ん……さて」
 野菜室にはわずかばかりの野菜類と、フリーザーに鶏の腿肉とささ身と豚のバラ肉が1パックずつ。タラと鮭の切り身と、カレーや手作りハンバーグのタネの冷凍保存が整頓されて並べられている。
 何を作るにしても半端な量だった。自分一人分なら賄える量だが、亜美と二人となるとそうもいかない。
「よし、じゃあ奮発してゴーカなディナーにしちゃおうかな、久し振りに! えっとスーパーのチラシチラシっと……」
 独り言を呟きながら新聞受けを探り出す。
 一人暮しのなるべく節約を心掛けた生活では高い新聞など取らなくてもよいが、折り込まれるスーパーのチラシは重要だ。背に腹は変えられずに半年に一度新聞社を変えて新聞を取っていた。新聞社を変える理由は、勧誘の際に業者が持って来る洗剤類が目当てだった。……多少セコイ気もするが、それこそ背に腹は変えられない。
 それに、ついでに新聞に目を通せば、亜美との会話の話題にも事欠かない。
 まことは一通りチラシに目を通すと、制服を着替えて家を出た。
 お気に入りのキャミソールに着心地の良いパーカ、ブーツカットのジーンズにスニーカー。
 マンションの駐輪場に止めてある自転車を引っ張り出して来て、勢いよく漕ぎ出した。
 ――目指すは十番街のスーパー、安売り完全制覇!
 ……ってなんか違うな。
 まあいいや、と呟いて、まことの乗った自転車は高く澄んだ秋の空に溶け込むように、滑らかにスピードを上げた。頬に当る風が気持ち良い。パーカが風を孕んでパタパタと騒いでいたが、それもまた逸る気持ちに拍車を掛けた。
 少しだけ落ち込んでいた気持ちが風に溶けていくようだった。
 そして楽しい事だけを考える。
 久し振りの亜美とふたりっきりの夕食。
 それがどうしてこんなに嬉しいのか……それに気付かないまま。


「ちょっと張りきり過ぎちゃったかな、こりゃ……」
 買った食材をダイニングテーブルに広げ、その量と品目の多さに自分でもちょっと買い込み過ぎだと反省しつつ、仕分けしていく。直ぐに使わない食材を冷蔵庫に仕舞ってから、腕を捲り、エプロンを手にした。――去年の誕生日に亜美から貰った、緑がベースのタータンチェックのエプロン。
 それを着けると増々気分が楽しくなり、自然と鼻歌が出始めた。野菜類を水洗いする手付きも軽快になる。
「あ……、そういや大事な話って何かな……?」
 ふと手を止め顔を上げる。窓のサッシに置かれた、青いグラスに浮かぶ切り花が目に入り、亜美の顔を思い浮かべる。プランターに植えてあったクジャクアスターの茎をふとした拍子に折ってしまい、仕方なしに切り花にしたものだ。薄い紫色の野菊に似た花で、亜美もお気に入りの花だった。
「大事な……話って……」
 学校ではそんな事は一言も言っていなかった。うさぎにも他の皆にも関係のない話だろうか。
 先程三人で下校していた時にも話があるような素振りは見せなかった。
「…………」
 手を伸ばして、コッキングハンドルを下げて、水を止める。
 剥き身の玉葱を手にしたまま、ただ一点を凝視した。
 ――クジャクアスターの花。

「――何だか可哀想」
 昨日、亜美はベランダで屈み込むと、徐(おもむろ)にそう呟いた。
「え? 何か言ったかい?」
 自室でCDラックを探っていたまことは、窓越しの亜美の声がよく聞こえずに少し大きめの声で問いかけた。顔だけ振り向けて、窓の外に目を向ける。
 すると亜美が白いプランターを抱えて立ち上がり、まことに見えるようにそれをこちらに差し向けた。秋咲きのその花は、今が正に咲き時だ。
「ああ、クジャクアスター。綺麗だろ? 花びらの広がり方が孔雀の羽に似てるからそういう名前が付いたんだって――」
「そうじゃなくて!」
「ん?」
「これ」
 亜美がぐい、と差し出した箇所を改めてよく見ると、なるほど、密生した茎の一本が根元から折れてしまっている。
「ありゃ。朝、洗濯物を干した時に引っ掛けちゃったかな」
 まことは言いながら視線をCDの方に戻し、気のないように言葉を接いだ。
「そのままにしといていいよ。後で――」
「可哀想だわ」
 ぽつりと呟かれた言葉に、まことは再び振り向いた。
「――こんなに綺麗に咲いているのに……」
 亜美はしょんぼりと肩を落とし、ゆっくりとプランターを戻して折れた花にそっと触れた。……一度折れてしまったものはもう元に戻らない事は分かりきった事だけど、それでも懸命に生きていた花がこんな事で枯れてしまうのはとても悲しかった。
 亜美は花の輪郭をなぞり、じっとその薄紫の花びらを見つめた。
 まことは、そんな事ですっかり気落ちしてしまっている亜美を見て、亜美ちゃんらしいな、と小さな溜め息をついて言った。
「大丈夫だよ――」
「え?」
「切り花にして水に浸けておけば枯れたりしないから」
 まことはにっこり微笑んで、落ち込んだ亜美の心配を取り除くようにきっぱりと言い切った。――ね、と更に微笑みかける。
「だから、大丈夫だよ」
「……まこちゃん……」
 亜美はまことの笑顔に勇気づけられて、水を得た魚――ではなくて花のような気持ちになった。
 ――花の気持ちっていうのも変だけれど、でもそんな気分。
 温かくて気持ちの良い風が葉を揺らし、豊かな水に満たされている気持ち。
「ね、お願い出来るかな? 茎の断面が楕円になるように斜に切って、好きなグラスに水張って挿しておいてよ、ね、亜美ちゃん」
「ええ!」
 亜美はなんだか嬉しくっていそいそとベランダのサンダルを脱いで部屋に上がりかけ、ふと足を止めた。
「あの、まこちゃん……」
「ん?」
 すでにCDラックに視線を戻していたまことが、もう一度亜美を振り返った。
「あの、ありがとう」
 亜美は少し照れながらそう気持ちを伝えた。
 まことは、ぽん、と彼女の肩に触れて、亜美に向かってもう一度微笑んだ。
「どういたしして」
「……うん!」
 亜美は色んな事が嬉しくって、自分では随分とだらしない表情(かお)になってしまったかも、と思いながらも頬が緩むのを止められなかった。
 花の事、まことが大丈夫だよ、と気に掛けてわざとそう言ってくれたこと、まことが肩に触れてくれた事、まことが笑顔を向けてくれる事――。
 亜美はもう一度まことへ向かってこっそりと、ありがとう、と微笑みかけると、園芸用の鋏を取りにキッチンへと小走りに駆けていった。
 まことは、その時の嬉しそうな亜美の表情を見て、穏やかな気持ちで満たされていくように感じた。
 別に何でもない、こういった極自然なやり取りでちょっとずつ嬉しくなって、その嬉しい気持ちを共有できて、穏やかな気持ちになれて、きっとずっと一緒にいてくれる友達がいて……。
 ――彼女とずっとこうしていたいと思った。いつまでもこうして「親友」として――。
「あ、亜美ちゃん!」
 既に青いグラスに薄紫の花を挿し終えていた亜美が、グラスをキッチンの窓に置いてから小走りで戻って来た。後で彼女に聞いたら「キッチンに置いて置けばいつでもまこちゃんが見られるから」――だそうだ。
「なぁに?」
「はい、コレ」
「……CD……?」
 まことが先程から探してようやく見つけたCDを亜美に手渡すと、そうされる心当たりのない亜美は、案の定小首を傾げてそのタイトルを見つめた。
「ダンス・オブ・ザ・ドルフィン……」
「ヒーリングCDなんだけどさ。最近亜美ちゃん元気なかったみたいだったから……、こういうの聞いたらどうかなと思ってさ。前に買った奴なんだけど、それ聞いてたらリラックスしすぎて、あたしなんかぐーすか眠りこけちゃってね。効果は保証するよ。あとはアロマセラピー系で入浴剤も探して買ってみたんだけど……それはあとで渡すね」
 言ってまことは何気なく亜美の腕に手を添えようとして、思わずその手を止めた。
 ふっと、見上げてきた亜美の驚いて潤んだ瞳に、どこか胸の辺がきゅ、と鳴った。――なんだ?
「まこちゃん……、気付いてた……の?」
「あ……うん。最初は勉強疲れなのかなって思ったんだけど、そうじゃないみたいだし。何か悩んでるみたいだったし、どうしたのかなって……。無理には理由は聞かないけど、あたしに相談出来る事だったら何でも話してよ……ね?」
 なるべく強要しないように気を付けて言いながら、改めて亜美の腕に手を添えて、そっと撫でてみた。
 すると亜美は咄嗟に俯いて、まことの腕をそっと押し返した。
「……いいの。大丈夫だから」
「亜美ちゃん……?」
「CDと入浴剤、ありがとう。――今日は、もう、帰るわね。時間も遅いから……ごめんなさい」
 そう言って彼女は、それ以上まことに何も言わせずに突然帰ってしまった。

「……ごめんなさい……か」
 ――それが昨日の事。
 まことはクジャクアスターの花を見つめながら、亜美の悲しげな表情を思い出していた。
 思わず自分の手を見る。
 やんわりと、押し返されてしまった手。
 あの時亜美は何かを訴えかけていた。
 ――悲しげな顔。
 違う。
 悲しいんじゃなくて、もっと、
 切なそうな……。
 そうだ、あの時あたしは腕を押し返されて――切なかった。
 切なくて切なくて、亜美ちゃんを引き止める事も出来なかった。
 もう一度ちゃんと亜美と話したい。
 亜美の言う大事な話。
 よくは分からないけれど、きっと自分にとっても大事な話なのだ。
 それだけは、分かった。
「――あたしは……一生懸命、亜美ちゃんの為に美味しい夕飯を作って、それから――……」
 いつでも見れるようにとキッチンに置いてくれた、亜美の挿したクジャクアスターを見つめる。
「それから、亜美ちゃんを迎えに行こう……」

◆  ◆

 風が鳴いていた。
 遊歩道を吹き抜ける風は少し冷え込んで、薄着の亜美は大丈夫なのだろうかと、そんな事を考える。

 いつからか――
 彼女のその気持ちには気付いていたのかも知れない。
 気付かぬ振りをしていたのは……。
 否、振りをしていたのではないけれど、答を先延ばしにはしていたのだ、恐らくは。
 ――自分の気持ちに答を出す事を。

「あなたが、好き」

 冗談や、「友達として――」なんて事じゃないことぐらい直ぐに分かった。
 だって分かるから。
 懸命に、絞り出すように――、それでいて少しも弱々しくなく、とても真直ぐで、純粋な言葉。
 不思議と驚きはしなかった。
 彼女の言葉を予期していたのではなくて。むしろ何も分からないままにそんな言葉が自分に向けられるのを恐れていたような、でもどこかでそれが分かっていたような。
 驚きはしなかったけれど、その言葉が壊れ易い硝子細工のようで。
 ――持て余していた。

「亜美……ちゃん」
「…………」
 亜美は無言のまま一心にまことを見つめ、まことは目を逸らす事も出来ずに、ただ立ち尽くした。
 何も言う事が出来ない。
 恐かった。
 不用意な言葉で彼女を傷つけてしまうのが。
 自分が何を言っていいのか。
 何を言ったらいいのかさえ分からない。
 このまま彼女を抱き締めてあげたっていいのかも知れない。
 でも、このままじゃ、だめだ。――絶対に。
 自分の気持ちすらはぐらかしたままでは、ただ徒に亜美を傷付けてしまうだけだ。
 ――でも、
 理性の制止とは裏腹に、この腕は亜美を抱き締める事を求めている。
 その気持ちが「友情」の優しさなのか、「愛情」の欲求なのか、分からなかったけれど。
 今迄、そんな事考えようともしなかったから。
「あみ――」
「……どう、して、迎えになんか来たの……」
 掠れた亜美の声が耳に届く。
 直ぐには言葉が出て来ない。
 亜美はまことが何も言わないので、沈黙に押しつぶされてしまいそうで言葉を繰り返した。
「どうし――」
 その言葉を、まことは、心の中で痛々しい叫び声を上げる亜美の悲痛な声をこれ以上聞いていられなくて、咄嗟に遮る。
「あたしは!」
 ――遮る事しか出来なかった。
「…………あたしは、来たかったから来たんだよ」
「……ど…いう、……み?」
 亜美の声は掠れて殆ど聞こえなかった。でも何を言っているか分かる。
「あたしは早く亜美ちゃんに会いたかった。……会いたかったから、来たんだ。亜美ちゃんを迎えに」
「だ……ら、どういう意味、なのよ……?」
「…………亜美ちゃ」
 言いかけて、腕を差し伸べる。
「やめて……!」
 まことの腕が振払われた。 
「同情なら……やめて。分かるのよ、あなたが何を考えているか……。分かるから、嫌なのよ。分かり過ぎて――期待してしまう自分が嫌なのよ! 期待なんかしたくない! まこちゃんが望まないなら、さっさと振ってくれた方がマシだわ! そう――……」
 亜美は顔を上げ、懸命にまことの瞳を見つめて言った。
「そうすれば、ちゃんと親友に戻るから!」
 震えそうな声でなんとか口にする。
 ――ちゃんと親友に戻るから。
 「親友」に。
 あの10cmの距離に。
 きっとこの気持ちは届かない。きっと彼女を困らせるだけ。分かっている。
 ――でも、胸が痛い。
 分かっている筈なのに、理解しているのに、答えは出ているのに、胸の痛みが否定しようとする。
「亜美ちゃ……」
 まことの言葉が呟かれて途切れる。
 途切れて、何も聞こえない。
「……ちゃんと、戻れる、から……! お願い、何か、言ってよ……!」
「――――――」
 まことは立ち尽くしたまま、何も言う事が出来なかった。何を言っても彼女を傷付けてしまいそうで。
 目と目を合わせて話すのがこんなに辛い事だとは思わなかった。亜美の真剣な眼差しが痛い。
 “親友に戻るから”――だなんて、そんなどう仕様もない言葉を言わせているのか、あたしは。
 “好き”と言った言葉を打ち消して、「親友」に「戻る」だなんて。
 ――戻るとか、そんな簡単なもんじゃないだろう。
 あたしたちが築いてきたものは、「戻る」とか「親友になる」とかそういうんじゃ、なくて!
 ……もっと!
 自分は今どんな表情をしているのか……。
 亜美にどんな表情を見せているのか。
 逸らす事なく大きな瞳は真直ぐにまことを見つめ、じわりと、その瞳から涙が溢れてくるのが見えた。
 気丈な亜美が人前で泣いている。決してどんな事があっても今迄見せる事のなかった涙を、流している。
 ――分かるのよ、あなたが何を考えているか。
 近過ぎたのだ。
 近過ぎて亜美はまことの戸惑いを知り、まことは亜美の気持ちが「恋」だとは気付かずに、自分に向けられた瞳がいつから「憧れ」から「恋」に変わってたのかなんて、気付きもしなかった。
 その事に気付かないまま、ただ、
 彼女の蒼い瞳に、
 友情とか恋だとか関係なく、ただ、
 ――惹かれていた。
「あたし――……」
 ――胸が破裂してしまいそうだ。
 分からない。何が「恋」で何が「友情」なのか。
 今迄誰かを好きになった事は何度だってあったのに。……遠くから見つめて、ようやく思いが叶って一緒にいて、でもうまくいかなくて。過ごす僅かな時間のずれが寂しくって、口にはしなくても泣き言ばっかり思ってた。――寂しがり屋。多分あたしは人よりもずっと寂しがり屋だったんだ。
 でも亜美ちゃんと一緒にいて、寂しいなんて思う事なんてなかった。いつだって満たされてた。
 ……満たされていて、彼女の気持ちに気付いてあげられなかった。

 “……いいの。大丈夫だから”
 “……ごめんなさい”

 そう言った、彼女の寂しさに。
 そう言うしかなった、彼女の寂しさに――。

「あ、まーこちゃん! こんなトコで何してんのぉー? あれ、やっぱり亜美ちゃんも一緒だー!」
 突然の声にまことは大きく体を震わせて、咄嗟に亜美を後ろに庇いながら声の方へ振り向いた。
 暮れて色彩の落ちた景色の中に浮かぶ影がこちらを見下ろしていた。
「う、うさぎちゃん――――」
 遊歩道に沿うようにして少し小高く設けられたサイクリングロードで、自転車にまたがったまま、うさぎがこちらに手を振っていた。
 心臓が強く打鳴らされ、気付かれないよう薄く開いた唇で荒い呼吸を繰り返した。
「あったしママからお使い頼まれちゃってさ〜。スーパーまでひとっ走りよ〜! あ、ねえねえ二人は何してんの? 亜美ちゃん塾の帰り?」
 一気にまくし立てるうさぎはいつもの調子で、少なくとも亜美が泣いていたのには気付いていない様子だ。良かったと胸を撫で下ろして、まことは不自然にならないように亜美の前に立ち、うさぎの死角になるようにして、返事を返した。
「ああ、そうなんだ。えっと亜美ちゃんのお母さん、今日夜勤でいないっていうから一緒に夕飯でも食べようかと思って、塾まで迎えに行ってたんだよ」
 ――なんとか言い繕う。
「あ、そうなのー? いいなあ亜美ちゃん、まこちゃんの手料理が食べられてー。あたしも食べたいよー!」
「はは、うさぎちゃんはまた今度ね」
「うん! 約束ね! ……って亜美ちゃん、どうかした?」
「え?」
「あれ? なんか…………、喧嘩でもした?」
 ぎくりと肩が震える。
 一言も発せず、まことの背後で縮こまる姿にうさぎは首を捻っている。
「や、な、何でもないんだ――。あ、あ、あたしたちが喧嘩なんてする訳ないだろ」
 慌ててまことは言い訳にもならない言い訳を絞り出す。
「あはは、そだよね。あたしとレイちゃんじゃあるまいしね。まこちゃんと亜美ちゃんが喧嘩なんて――」
 やっぱり二人に限って喧嘩なんてしてないか――そう思った時。
「どうしてそう思うの?」
 うさぎが言いかけた言葉を、突然の声が遮った。
 亜美はまことの背から歩み出し、濡れた瞳でうさぎを見上げた。涙は流れてはいないが、そのお陰でこうも薄暗ければうさぎにはそうとは分からないだろう。
「どうしてって……?」
「私たちだって喧嘩ぐらいするかも知れないわよ」
 亜美の真剣な声音に、うさぎは息をつく。
「…………そうだね」
 そして居住まいを正すようにサドルに座り直した。
 まずいトコ、声かけちゃったかな……、そう思いながら言葉を探した。でも――、
「喧嘩ぐらい誰でもするよね。……でもさ。喧嘩したって大丈夫だよね。二人はさ」
 そう言って二人の方を向いて微笑む。
 喧嘩はいやだよね、とか、どうして二人が喧嘩してるんだろう、とかそんな事が頭を過るが、ただ思った事だけを口にした。――そうする事が正しいとか思った訳ではなくて、ただ、口にしていた。
「なんか大丈夫な気がするもん」
「……どうしてそう思うんだい、うさぎちゃん?」
 今度はまことが問いかける。
 うさぎは、う〜んと頭を捻って考え込んだ。
「どうしてって言われると分かんなくなっちゃんだけどさ。こ――……あ、だめだ違う。う〜んとね、あたしとレイちゃんはいっつも喧嘩ばぁっかしてるっしょ? でも大丈夫なんだよね。いっつもレイちゃんってば、あたしがカチンと来る事ばっか言ってくるけどさ、でもあたしもヤじゃないし。……そういうレイちゃん嫌いじゃないよ。レイちゃんの事好きだもん。大事な……親友だからさ。――あははははは!」
 照れ隠しのように笑ってからうさぎは慌てて釘を刺した。 
「あ。今言ったのレイちゃんには内緒だかんね!」
 少し赤い顔をしているのは、見て見ぬ振りをしていてあげよう。
「――うん。それで?」
「あ、うん。それでさ。まこちゃんと亜美ちゃんはあたしたちとは違うけど、もっと違う感じで繋がってる感じがするんだよね。あたしとレイちゃんはもう正に喧嘩友達って感じだけどさ。ふたりはさ……」
 そこでうさぎはわざと言葉を切り、ちらりとまことと亜美を交互に見遣った。
「何?」
「ちょっと妬けちゃう感じ!」
「へ?」
 まことは思わず素頓狂な声を上げてしまい、思わず顔が赤くなる。
「友達同士でヘンだけどさ」
 あ……そだ、と言ってうさぎは自転車のハンドル部分に体を預け、こちらに身を乗り出した。何か思い付いたようだ。
「前にベイブリッジの所から皆で帰って来た時の事覚えてる?」
「あ、あぁ。覚えてるけど――」
「そん時さ、二人であたしを家まで送ってくれて、その後二人で帰ったっしょ。……わ・ざ・わ・ざ・遠回りして」
 ニヤリと笑って、まことの表情を覗き込むうさぎ。
「! き、気付いてたのかい!」
「だって亜美ちゃん家もまこちゃん家も、ウチの前の道真直ぐ行った方が早いのに、元来た道戻ってくんだもん。だからなんか妬けちゃったよ、ふ・た・り・共に」
 亜美は少し意外そうな表情を浮かべて、まことを見上げた。まことは亜美の視線に気が付くと、思わず目を逸らし、耳を真っ赤にして俯いた。
「あ、えっと、ど、どうだったかな……」
 ――そうなのだ。……そうだった。
 ベイブリッジからの帰り道。
 うさぎを送った後、思わず道を引き返していたのだ。
 何も言わずそうしても、やはり亜美も何も言っては来なかったし、いいのかな、と思って遠回りをして帰ったのだった。もう1年も前の話だ。
 あの日は皆で集まって火川神社で焼き芋大会をしていた。ブラックムーンの呪縛から解放されたベルチェとコーアンもいて、皆で神社の落ち葉の掃除をして、沢山の薩摩芋を焼いて食べて、ともかく楽しかった。
 だが突然、敵が――ペッツとカラベラスが現れた為、ベイブリッジへ急行してそのまま戦闘になり、その時、ジュピターはマーキュリーを――……。
 ――その、帰りの事だ。
 二人きりになって、戦闘の時の事を何となく思い出していた。マーキュリーを庇って、彼女の身体を支えながら必死でベイブリッジのロープにしがみついていた事を……。
 闘っていた時は夢中で、ただ必死で――彼女を支えなければ、彼女の力になりたい、とばかり思っていた。そして気が付くとマーキュリーを抱いてロープにしがみついていたのだった。
 彼女の身体を支えながらなんてか弱い身体なのだろうと始めて知り、確り掴まってな、と言って力一杯彼女を抱くしかなかった。
 マーキュリーの……――否、亜美の細い肩――
 亜美と並んで帰りながら、横目で彼女を見て、抱いた肩の感触を思い出した。ちょっと痩せ過ぎだよな、とか――もっと確り食事を採った方がいいよな、とかそんな事を思いながら。……もう少し二人で歩いていたいな、とか――。
 あの時。
 “それに……優しいし”
 ……真直ぐな瞳で見つめられてそんな事を言われて、酷く動揺していたのだ。
 “ありがとう……今日、闘っている時、ベイブリッジで……私の事、支えてくれて……”
 彼女の言葉が嬉しくて、少し照れているのか顔を赤らめているその表情も仕種も、見つめていて切なく感じたのだ。
 ――切なくて。
 ああ、そうだ。
 あの時も今も、同じ気持ちを感じていた。

 うさぎはこっそりと笑みを洩らし、――さて、と自転車のペダルに脚を掛け直した。
 そして、まことたちに声を掛けながら一気に自転車を漕ぎ出した。
「あ〜じゃ、あたしもう帰らないとママに怒られちゃうから! じゃ、二人共、明日ガッコーでね! 一緒にまこちゃんの手作り弁当食べようね! じゃあね、きっとだよ! お休み!」
「あ、お、お休み!」
「お休みなさい!」
 ……ジャリッ、ジャリッ、と自転車が砂を噛む音が元気よく鳴り出したが、やがて直ぐに遠ざかっていってしまった。二人は黙ったまましばらくその音を聞いていた。
 ……ジャリッ、ジャリッ、ジャリッ……
 風に攫われるようにして、その音も聞こえなくなる。
 辺りにはただ風の音だけが流れ、再び二人だけの時間が流れ出した。
「……行っちゃった……」
 まことは小さな溜め息をついた。
「――まったく、うさぎちゃんには敵わないなぁ」
 そう言って、穏やかに微笑む。
 思い出した。
 あの時、一緒に歩きながら、自分が何を感じていたのか。
 何を想っていたのか。
 本当に、我らがプリンセスには――
 敵わないな。
 あっさり、気持ちを気付かせてくれた。
 でもきっと、「友情以上」の事で悩んでいただなんて気付いてないんだ、きっと。
 でも……、それでいい。
 しばらくは。
 しばらく、二人だけの秘密にしておきたいから。

 やがて、亜美の方から切り出した。
「――ホント?」
 まことは、今度は目を伏せたまま問う亜美の背中を見て、ただ正直に答えた。
「――ホント。わざと……遠回りしたんだ、あの時」
「…………そう」
 それ以上亜美は何も言わなかった。
 まこともしばらく黙っていた。
 それからゆっくりと深呼吸すると、そっと亜美の背に手を掛けた。
「――行こう。そんな薄着のままじゃ、亜美ちゃん風邪ひいちゃうよ」
「――――か」
「帰るだなんて言わないでよ。あたしはそんな事望んでないよ、少しも」
 ――ずるい。いつもまこちゃんは優しい言葉ばっかりで。拒絶もしてくれない。
 そう思ったら、見透かしたようにまことが言った。
「ごめん。あたし、こういうのってずるい……かな? ……でも、お願いだからもうしばらく一緒にいてよ。一緒にいたいから。ね?」
 まことは、解かれてしまうのを覚悟して亜美の肩を、右腕で抱いた。両腕ではまだ抱けないけれど。
 少し力を込め、亜美を引き寄せる。
「…………」
 亜美は振り解く事も出来なくて、まことのなすがままに従った。
 まことの腕がするりと下りて、亜美の左手を握った。
 その手を振り解く事も握り返す事も出来なくて、ただ、こんな時でさえまことに触れられるのを嬉しく思っている自分に、どうしようもないじゃない、なんて考えて。
 やっぱりどうしようもなくまこちゃんが好きなんだと自覚させられて。
 振り解きたくても振り解けなくて。
「行こう。沢山作り過ぎちゃったんだ、夕飯。一緒に食べてくれないと、困るんだ。――亜美ちゃんの為に作ったんだから――」
 強く握られた手が、熱かった。

◆  ◆

「……あの時、ただ道を間違えたんだと思っていたわ」
 まことの部屋の玄関まで来ると、亜美はぽつりと言った。――さっきからずっと心臓が痛い程高鳴っている。まことが何を考えているか分からなかった。
 期待していいのか、期待してはいけないのか。もうそれすらどうでも良くって、握られていた手が緊張で冷えきっている筈なのに、彼女の手の熱で、まるで自分の手が熱いみたいに感じられた。
 まことは鍵を開けた。
 亜美と繋いでいた右手だけが熱くって、かじかんだ左手がうまくドアハンドルを握れなかった。
「……あのね、あたしだってそこまでバカじゃないよ。……少しでも長く亜美ちゃんと一緒にいたかったんだ」
 戸惑う亜美を招き入れて、ドアを閉じる。鍵を掛けるのももどかしくって、彼女が何か言いかけたが、振り向く前にそのまま亜美を背中から抱き締めた。
 亜美の細い身体がきゅ、と固くなり、彼女が息を飲むのが分かった。
「……それって……どういう意味?」
 上擦った声が腕の中から漏れ出た。
 まことは亜美の耳が赤く染まったのを見て、とても切なくなる。
 ――この感情(きもち)を、確かにあの時も感じていた。
 右腕がマーキュリーの――亜美の肩を抱いた感触を忘れていなかった。  あの時も今も、同じ気持ちを感じていた。
「どういう……意味、なの?」
 亜美がもう一度問いかけた。精一杯の声。
 まことはそっと腕を離すと、亜美の腕を取り振り向かせる。
 亜美は俯きながらまことと向き合い、でも顔すら上げる事が出来なくて、まことが腕に触れる感触だけを強く感じているしかなかった。
 亜美を見つめながらまことは――胸を痛い程締め付けるこの気持ちに、それが何なのか、何故なのか、ようやく気が付いた。
 ――切なさと愛おしさが同じ気持ちなのだと、ようやく気が付いた……。
 そして小さく呟いた。
「……こっち、見て?」
 亜美は酷く緊張しながら、ゆっくりと、とてもゆっくりと、顔を上げた。
 まことは潤んだ彼女の瞳を見据えて、気持ちを確かめるように、じっと彼女の顔を見て、この気持ちが全部、全て、ありったけの気持ち全部、彼女に通じるようにと願った。
 もう迷わない。
 ありったけの気持ち全部、彼女に通じるように――。
「好きだ、亜美ちゃん」
 亜美の身体が震える。
「――亜美ちゃんが、好きだ。…………亜美ちゃんが、好き……!」
「まこ、ちゃ……!」
 亜美が腕を伸ばして来て、まことの背に触れるのが分かった瞬間、まことも亜美を抱き締めずにはいられなかった。強く、抱き締める。
 互いに強く抱き締める。
 ただそれしか出来なくて。
 ――愛しくて切なくて、抱き締める事しか出来なくて。
「好き――」
 ありったけの気持ち全部。
 それが、全て。

◆  ◆

 時計の針がいつの間にか11時を指していた。
 時間が経つのがとても早くて、二人は「今日」がずっと続いたらいいと願わずにはいられなかった。
 ――でも時間は過ぎて行く。

 結局料理にはあまり手が付けられなかった。
 胸がいっぱい過ぎて、本当に何も喉に通らなかった。
 食卓で向かい合いながら、目が合う度少し微笑み合ったりして、でもそれが恥ずかしくて、また目を逸らしたり。互いの目を盗むようにちらりと伺うと、やっぱり目が合って思わず逸らしてしまったり。
 結局40分以上時間を掛けたものの、箸は進まず全てのおかずが残る事になってしまった。
「ごめんなさい、折角まこちゃんが作ってくれたのに、あまり食べられなくって……」
「いいよ、あたしも殆ど食べられなかったし。――もし良かったら……」
「え?」
「もし良かったら明日、一緒に食べてくれるかな? 待ってるから」
「…………はい」
 やっとの事で亜美が頷くと、まことは嬉しくてにっこり微笑みながら言った。
「…………ありがと。あ、ごめんね玄関なんかで引き止めちゃって」
「いいの。――その、私も……」
「何?」
「その……」
「何だよ言ってよ、亜美ちゃん」
「あの――」
「ん?」
 まことが腰を屈めて亜美の顔を覗き込むと、亜美は、やだ、と驚いて一歩下がった。
「言ってってば」
 更にまことは腕を引いて亜美を引き寄せ、逃げられないように確りと手を握った。
「ホラ」
 すると亜美の赤い顔が更に深く染まる。
「な、何でもないのよ」
「うん」
「ただ……私もまこちゃんと少しでも長く……いたいから」
「なんだ、そんな事……」
 まことはほっと息をついて、彼女もまた赤い顔で苦笑した。
「だって……」
「あたしはさ、ただ一緒にいるだけじゃなくてさ。……このまま玄関開けちゃったら、もう亜美ちゃんの事抱き締められなくなっちゃうから引き止めてたんだよ」
「ま……!」
「いいかな、もう一度……亜美ちゃんの事、抱き締めても……?」
 亜美はまともな返事すら返せず、ただ頷くしか出来なかった。
「…………ん」
「亜美ちゃん……」
 まことの声がずっと近くに聞こえて、亜美は心臓が破裂するんじゃないかと思うくらい鼓動を高鳴らせた。
 そして、そっとお互いの身体を抱き締めた。
 このまま時間が止まってしまえばいいと願いながら……。
 やがて、ゆっくりとまことの腕が亜美の背中から離れた。彼女の胸の温もりもそっと離れる。そう思った瞬間、まことの手が頬に触れた。……微かに震えているのは、自分の方かそれとも彼女の指なのか。
 ――分からない。ただ、全身が熱い。
 そのまま動けずにまことの胸元に視線を落としたまま俯いていたら、彼女の掌が頬を包み込むように添えられた。
 亜美は、しばらくそうしてまことの手の温もりに包まれたまま身を固くさせていたが、その手に勇気づけられるようにおずおずと顔を上げた。
 再びまことの温もりを近くに感じる。
 ゆっくりと、ゆっくりと、二人の距離が縮まっていく。
 やがて躊躇いがちに降りて来た唇が、――触れた。
 唇に。
 ふわりと触れて、直ぐに離れる。
 そして再び強く抱き締められた。
 亜美もまこともただ身体中が熱くって、嬉しさも恥ずかしさも熱の中で綯い交ぜられ、今迄感じた事もない熱が全身を駆け抜けた。そしてそのまま動けなくなる。
 ――今は、これが精一杯。
 抱き合いながら、二人は痛い程感じていた。
 ……切なさと愛しさを。

Fin.








POSTSCRIPT
あとがき
★今回のあとがきは言い訳ばっかりです…げふん。

★書けました、告白エピソード後編。今回は色々書きずらかったです。む〜慣れない切ない系書くもんじゃねえな、とか思ってみたり。しんどかったです、思うようにまこちゃんが動いてくれなくて(笑)
★本来、あとがきとか言って実はただの言い訳…なんて書かない方がいいんだろうけど、ってか書きたくない筈なんだけど、根が暴露癖体質なんで、あーだこーだと書いてしまうんですが…。

★告白SS。以前からネタをずっと温めて、本来は3つ位にお話が別れてました。それぞれ読みきりで。亜美ちゃんがまこちゃんを好きだと思い悩む話、R72話のベイブリッジ話、告白話、って。まあ、要は今回それを1つのお話に要約した結果になったので、大筋は変わらないんですが。
★今回敢えてそれらを1つにまとめたのは、きちんとした感情の流れを描きたかったから。亜美ちゃんがまずまこちゃんを好きになって、次いでまこちゃんが亜美ちゃんを好きになると。告白シーンだけにしちゃうと、「好きだ」って描写にしかならないで、お互いの感情の過程が書ききれなくなっちゃうと思ったんですが。
★ん〜出来上がった物を読み返してみると、どーも、なんだかな〜と言う気が(笑)だってまこちゃん思うように動いてくれないんだもん!(笑)亜美ちゃんはあれでいいんだけどね〜。ひたすら思い悩む亜美ちゃん好き(鬼)
★実は今回書きたかったメインテーマは「ヘタレまこちゃん」…や、うそうそ。でも、あっさり亜美ちゃんを受け入れるんじゃなくて、葛藤をさせたかったんです。ず〜っと友達として過ごしてて、なんとなくお互いの気持ちには気付いているんだけど、やっぱり思い切れない。別に女の子同士だから、とかの理由で悩むんではなくて、単に線引きが苦手な感じ。
★ま、実際書いてみたら、ただまこちゃんニブくて、更に意気地のない事に…。そんな予定ではなかったんですが…。ん〜ただ、あっさり受け入れるのだけは嫌だったんですよ。恋愛ってそんなに楽チンなもんじゃないと思うし。どんなに確信めいたものがあっても不安になるんだと。
★そんな感じで「まこちゃんの葛藤」が書きたかったんですが、正直うまいこといきませんでした。その内リベンジしたいと思います。

★あと、キーマン「うさぎ」。うさぎはこういうとこで友達をさり気なく支えてあげれるんだと。支えてあげようとして支えるんじゃなくて、存在だけで「よいしょ」っと。

★それからタイトル。前編UPした時からちょっぴり変えました。もちろんカセコレからの拝借です。告白だからロマンスのプレリュードって事で。


★おまけ★





Waterfall//Saku Takano
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