恋の方程式 ―星にねがいを side AMI―
―Scene 1―


今はまだ……
あなたの事を想うだけで
精いっぱいだから

星に願いを
お願いを




 浴室いっぱいに広がったネロリ独特の甘やかな香りが、心地よい。浴槽を満たす湯をさらりと掻くと、上品な香りがほのかに香って気持ちを柔らかくさせてくれる。彼女に勧められたエッセンシャルオイルは亜美の好みにぴったりと合ったようで、好きだったバスタイムが尚の事楽しくなった。
 元々長湯をする方だし、大好きな本を読みふけりながら温かな湯に浸かっているのは、至福の時間だった。ライトノベルやエッセイ、雑誌……そういった気軽に読める本を持ち込んで、たっぷり30分以上浴槽の中で過ごす。そうすると疲れも取れるし、とてもリラックス出来て気持ちが良かった。――でも。
「ふう……」
 小さな吐息をついて、目を閉じる。両手両足を投げ出して、漫然と取り留めない事ばかりを考える。
 ――そういえば最近はお風呂で本を読む時間もすっかり減ってしまった。
 今日だってちゃんと読むつもりで脱衣所まで持って来た科学雑誌があったのに、ちっとも読む気になれず、用意したバスタオルの上に置きっぱなしになったままだった。
 ふう、と火照った身体がもうひとつ溜息をこぼさせる。
 ぱしゃぱしゃと跳ねる水音を楽しむように、水面で指を遊ばせる。立ち上るアロマオイルの香り。不意に過る彼女の、顔――。

 ――まこちゃん。

 朗らかな彼女の笑顔を思い描いて、じん、とほんの少し頬の温度が上がる。
「やだ……」
 こんな無防備な姿でこっそりと彼女の事を思い描いては、ドキドキして顔を赤らめたりしている事が言い様もなく恥ずかしい事のように思えて来て、濡れた手で頬を覆う。
 彼女の深い萌黄色の瞳、つややかな頬、柔らかいクセのある褐色の髪――。
 いつもぴんと伸びた綺麗な姿勢、すらりとした首すじ、深い鎖骨のライン、 長い手足――。
 そういった彼女のひとつひとつを思い出すだけで、無性にドキドキしてしまう。
 なんだかひと月前に始まったばかりの「お付き合いしている」という新たな関係が恥ずかしくて、一人きりの浴室で誰が見ている訳でもないのに、両手で顔を覆う。
 ――“亜美ちゃん ”
 そう囁く声も大好きで。
 ああ、大好きだなんて何を言っているんだろう。少し前までは恋なんて自分には縁のない事と思っていたのに。
「もう……」
 思わず、口元まで湯に浸かるくらい潜り込む。
 揺れる水面が唇をくすぐって、ふと、まことの唇を思い描く。――あの日、一度だけ触れた唇……。微かにやんわりと、ほんの少しだけ触れて。
 その感触を思い出すように、唇に、触れる。
「や、やだ、私ったら……」
 唇に触れた感触を誤魔化すように真一文字に唇を結び、再び湯に潜り込む。
 ――なに考えてるのよ……。
 口どころか鼻まで浸かるが、それでもどうにも居たたまれなくなって、両腕で自分を抱き締め、ぎゅっと腕を掴む。
 だめだめ。
 そう自分を諌めてみても気が緩むと直ぐに彼女の顔が瞼の裏にちらついてしまって、流れ出た湯のさざめきを耳にしながら何をやっているんだろうと、顔を上げ溜息をついた。
「私らしく……ないわね……」
 ――自分らしくない、という自覚はある。放り出してしまった科学雑誌、脳裡に絶えず写し出される彼女の姿、使い慣れないネロリのアロマオイル、彼女の勧めで替えてみたボディソープ……。
 きっとこんなの“水野亜美(わたし)”らしくない。
 でも――。
 自分らしいというのはどういう事なのだろうか。人とは常に変わっていくものだし、それに――なんというか結局の所、こういう自分は決して嫌いではないのだ。
 誰かの事を思って一喜一憂したり、ちょっとだけ生活を変えてみたり、携帯電話の着信を気にしてみたり。今迄は――……彼女を好きになるまでは、そんな事は決してなかった事なのに。
 誰かに影響を及ぼされて少しずつ変化していく自分。多分、これが……。
「恋……?」
 口に出してしまうと少し気恥ずかしい。
 恋して、お付き合いして、変わっていって。そして、新しい自分になる。
「まこちゃん……」
 まこちゃんまこちゃんまこちゃんまこちゃん。
 どんなに彼女の事を思っても思っても、全然気持ちが追い付かない。
 まこちゃんは今何をしているんだろう。
 もう11時を回っているから、お風呂なんて疾っくに済ませて、TVでも見ているのかしら? ……お勉強をしているって事は……多分なさそうだけど。むしろ参考書を手にしてもそれを放り出している方が彼女には似合っている。
「でも……」
 不意に落ち込んだ彼女の表情(かお)が過る。
 ――でも、今日のまこちゃんはちょっと元気がなかったみたい。皆と一緒にいると普段と変わらないのに、ふたりっきりでいると、どこか寂しそうで。今日一緒に火川神社に行く道すがらだって少し表情が暗くて……。どうしてだろう。何か悩みがあるのか、それとも私に原因があるのか。
 どうしたのかしら? 私といても……楽しくない、のかな……?
 少し、お湯を掻く。立ち上るネロリの香りが尚の事彼女を連想させるから、少し、不安になる。
 一緒にいるだけでドキドキしてしまうのは、私だけ……? 一緒にいるだけ……じゃ、お付き合いじゃない……のかしら。
 「お付き合い」するってどんな風にしたらいいの? まこちゃんは、私の事どんな風に思っているの? 今迄の「お友達」の関係とどう違うの?

「恋にも、問題を解く方程式があればいいのに……」

 そんなもの、どこにもない事も知っているけれど。

To be continued.


★ Scene 2 ★








POSTSCRIPT
あとがき
★……続きます。全4話の予定です。
★去年の年末に出した拙著同人誌「星にねがいを」がまこちゃんの一人称で書かれた小説だったんですが、今回のはその亜美ちゃん視点。ただ厳密に亜美ちゃんの一人称では書いていませんが。
★同じシチュエーション(シーン)でお互いがそれをどう感じたかの違いが表現出来ればな、と思ってます。




Waterfall//Saku Takano
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