■ Simple-mindeness ■
〈R18 / For Adult Only〉


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 御影はにっこりと笑うと、「やあ」と言った。
 事件の責任を取って軍事訓練科から普通科に転科になった際に、見事特進コースへの編入試験に合格していたので、ある意味ゆかりのクラスメイトのひとりには違いない。
「ど、どうしたの?」
 驚いたのがありありと見てとれるゆかりを見て、御影は満足そうに笑った。
「いや、きみが帰って来たようだったからどうしてるかと思って」
 しれっと言って部屋の中を指さす。それを見たゆかりが怪訝そうに、それでも部屋に通してくれる。
 何気なく部屋を見回した時に、エア・モニターが起動しているのが分かったが、風景写真の壁紙が浮かんでいるだけでウィンドウは何も開かれてはいない。
「まだPCは帰って来ないのかい?」
「どうせしばらくは無理でしょうし、あんまり期待してないわよ」
「そうか」
 綾瀬の内部調査室は民間とは言え、どうせお役所仕事とそう変わらないだろう。早々に帰ってくることは期待できない。
 だが期待していないとは言え、あくまでも趣味としてではあるが、プログラマとしてかなりの出費をして、本体も周辺機器もスペックも何もかも上位にカスタマイズしていたので、ゆかりとしては正直痛かったろう。手塩にかけて組み上げていたのを知っているし、愛着もあったろうし、あまり気にも留めていないような素振りを見せているが、残念であるに違いない。
「早く戻ってくるといいね」
「ええ……。なぁに。そんなこと言いに来たの?」
「いや、今日も調査室に呼ばれたって言ってたから。疲れたろうから、ご機嫌うかがいにね」
 松葉杖を立てかけ、椅子に座って足を組む。目の前のモニターがスリープして光量が落ちた。その時、机の上にとある物があるのに気がついた。
「理屈が通らないじゃないの。疲れてるのが分かってるなら、休ませて頂戴」
「そうかな? わたしが来ればきみの元気が出ると思ったんだけど」
 しれっとそう言うと、ゆかりの口元が引き結ばれる。――当たり、だ。ほんのりと頬が染まる。
「図星、だろ?」
 にやりと笑ってそう言うと、すると彼女があきれたように、腕を組んでこちらを見下ろした。
「ふざけないで。そんなこと言えば誰でも喜ぶと思わないで。用がないならお引き取り下さい」
 給仕か何かのようにこれ見よがしにドアを示す彼女。今度こそ真顔を顔に貼りつけて、本音などおくびにも出さないのがいじましかった。
「強気なお姫様だ」
「おあいにくさま。みんながあなた好みの可愛らしい女の子だと思ったら大間違いよ、ナルシストさん」
「そうかな? 少なくともきみはとても可愛らしい女の子だと思うけどね、ゆかり」
 そう言うと、今度こそ顔を赤くして眉が逆さへの字に曲がる。
「よくそんなこと言えるわね、あなた」
「だって本当のことだからね。それにご機嫌うかがいというか、きみのことを心配しているのは本当さ。大丈夫かい? わたしのせいで悪かったね」
 立ち上がり、察して逃げようとする彼女を背中から抱きしめ、下腹部の前で手を組む。完全に動きを封じられた彼女が、なんでもないように顔をそむける。
「別にあなたのためじゃないわ」
「そう?」
「ええ」
 そう言った彼女の横顔を追い、頬に唇を寄せた。かすかに唇を開き、やわらかな頬をはむ真似をしてみせる。突然のことに彼女がかすかに震えるのが分かった。
 懸命にこらえる彼女が可愛かった。普段は学園の生徒の長として肩肘張ってるくせに、戸惑って、怯えて、小さく身体を震わせることしかできない彼女。
「やめて……」
「いいよ。そんなふうに強がらなくったって」
 そう言って彼女のメガネに手をかける。ゆっくりと抜き取り、もう一度頬をはむ。今度は音を立てるようにして。
 やめてと言うくせに抵抗なんてしない。
 ぎゅっと目を閉じ、懸命にこらえている。
 彼女の顎に手をかけた。
「ゆかり」
 そう名前を呼んだ時だった。
「やめて! こんなことしないで!」
 突然、彼女がもがいて拘束を振り払った。
「いい加減にして。わたしがあなたの取り巻きの子たちのようにこんなことをすれば喜ぶと思ったら大間違いよ。あなたのことなんてもうなんとも思ってないわ!」
 そう言い放ち、御影を突き飛ばす。けれど軍事訓練科で鍛えてる御影にとってこんなことなんでもない。
 けれど正直驚いた。
 突き飛ばされるとは思ってもみなかった。彼女のために良かれと思ってしていたから。彼女は自分を好きなはずだ。たったひと月前、彼女自身がそう言ったのだ。
 だから照れているだけなのだ。そう思って御影はポケットからあるものを取り出した。
「じゃあ、これは何かな?」
 先ほどゆかりの机から取り上げたものを、彼女の目の前でちらつかせた。一枚のハンカチだった。そこから香水の香りが漂う。
「これは、何でしょう?」
 もう一度そう問うと、カッとゆかりの頬が染まった。彼女らしくなく、言い訳もできずに視線をそらす。御影はハンカチをベッドに投げた。これで決まりだ。
「こんなものより、本物の方がいいんじゃないかな?」
 言って、ゆかりの手首を掴んだ瞬間。――思いきり頬をはたかれた。
 パンと小気味良い音が部屋に響く。
「ゆか――」
「信じられない。こんなことして面白いの? 最低よ、あなた!」
 彼女が部屋を飛び出し、いらだった大きな音を出してバタンとドアが閉じられた。
 御影は打たれた頬に触れ、熱を持った皮膚をゆっくりとなでた。
 何がいけなかったのか。
 ただ彼女をなぐさめたかっただけなのに。
「……ゆかりに、なぐられた」
 起こった出来事をぽつりと口にして、御影はゆかりの出て行ったドアを見つめた。殴られた頬がただ熱かった。

 ゆかりは廊下の突き当たりまで進み、右に折れ、階段の踊り場に立った。誰もいないそこで立ち尽くし、両手で顔を覆った。
 信じられない。
 あんなひどいこと、自分にまで平気でして。ほかの誰にでもして。――好きでもなんでもないくせに。
 唇をかみしめ、俯く。
 あんなこと、言わなければ良かった。あの日、告白なんてしなければ良かった。みじめだった。本当は心のどこかで思ってた。自分は彼女の取り巻きとは違う。誰よりも彼女のそばにいて、彼女を理解してあげられるのは自分だけなのだと。
 だから彼女が恋人として選ぶのが自分じゃなくても良かった。ひと時の恋人よりも、ずっとそばにいるのは自分なのだからと思ってたから。
 でも違った。
 結局は自分だって彼女にとっては取り巻きの女の子たちと何ら変わらなかったのだ。
 みじめで、情けなくて、涙が出た。十年間も想い続けた自分の気持ちさえどうでもいいもののように思えて、悔しかった。悔しくて、情けなかった。
 ゆかりは声を出さずに泣いた。誰も来ない階段の踊り場でひとり。
 そしてひとしきり泣いて思った。
 もう今度こそ本当に忘れよう。こんな気持ちなんて。他の人を好きになろう。今度はもっと優しい人を。できれば男の人がいい。
 今度こそ。
 ――親友だとかそんな境界に苦しまなくていいように。

 御影はゆかりのベッドに腰を下ろし、目の前の白い壁を見つめた。
 手の中には彼女のメガネがあった。華奢なフレームのメガネだ。
 まるで彼女みたいだと思った。華奢でもろくて、そのくせガチガチに強がってばかりいて。
 あの時もそうだ。子供のころ、バレンタインに彼女に手作りのチョコレートを貰った。手作りといっても市販の板チョコを溶かしてハート型に固めただけの、お手軽手作りだ。でもそれでも「手作り」だった。
 周囲の女の子たちは年に一度のイベントに盛り上がって、みんな見目良いチョコレートをくれた。けれどゆかり以外に手作りのチョコレートをくれた子はいなかった。
 思えばその頃から彼女は自分に想いを寄せていたのかもしれない。
 だか果たしてゆかりの作ったそのチョコレートはとてもひどいものだった。ラッピングも、味も形も。ラッピングはどこをどうすればこんな不格好になるのかという程の出来栄えだったし、肝心のチョコも焦げて炭くさい苦さだったし、形だってぐちゃぐちゃだった。
 そうなのだ。ゆかりは今も昔も並はずれたひどい料理音痴だったのだ。それを思い出してくすりと笑う。今も思い出せた。それくらいインパクトがあったのだ。
 そして次の日、チョコレートの感想を聞かれた。けれど御影はつっぱねてしまった。親友からもらったそのチョコレートがとても嬉しかったのに、自分は子供で、嬉しいことを嬉しいと言えなかった。「あんなマズイの食べられないよ」――と。
 なんてひどい子供だと苦笑いが出た。けれどさらに思い出して笑いを引っ込めた。
 その時彼女がなんと言ったか。
 彼女はちょっと悲しそうな表情を浮かべたかと思うと、にっこりと笑って、ただ一言言ったのだ。

 ごめんね。――と。

 それ以来彼女の悲しむところも怒るところもまともに見たことがなかった。そういったことがあると、必ず彼女は笑みを浮かべたから。あれから彼女が自分にチョコレートをくれることはなかったし、自分が彼女に何か贈ることもなかった。
 彼女は色んなものを笑顔で隠していた。皆から慕われるあの笑顔で。
 あの時も、――今も。

「ゆかり……」
 静かにドアが開くと、そこにゆかりが立っていた。
「取り乱したりしてごめんなさい。ちょっと疲れてたから。……悪いけれどもう遅いから、部屋に戻ってくれる?」
 そう言うと、彼女がやわらかく微笑んだ。
 目もとが赤い。泣いていたのだとすぐに分かった。
「なんでそんなふうに言うんだ?」
「……どういうこと?」
「帰れだなんて。このままわたしが本当に帰ればいいと思っているのか?」
 自分でも少し驚くほど厳しい声が出た。まるで作戦中のような声だ。
「言葉の通りなんだけれど? 調査室から戻って疲れているの。もうお風呂に入るし、今日の課題だってしなくちゃいけないの。だから、お願い」
 御影は黙り込んだ。手元のメガネに視線を落とし、正直に告げた。
 馬鹿みたいに思った通りを口にした。
「正直言うとね。今日は……きみを抱くつもりでここへ来たんだ」
「……なんですって?」
 案の定、ゆかりが目を丸くした。けれど驚きに交じって怒りが垣間見えた。
 告げたのは正直な気持ちだった。
「きみがわたしを好きなら、そうするものだろうと思って」
 彼女が怒りを覚えているのが分かった。
「……本気で思っているの?」
「ああ」
 でも、本気だった。彼女になんと思われようと、言わずにはいられなかった。このままうやむやになんてできなかった。一度うやむやにしてしまえば、子供のころのようにまたうやむやな関係が始まるのが分かっていたから。
 だって彼女はそうなのだ。
 怒りも悲しみも何もかも抑え込んで、ご立派な優等生よろしくにこにこ笑ってばかりいて、いつだって本音を飲み込んでしまうから。
 もう二度とごめんねなんてセリフ、聞きたくはなかった。――少なくとも自分にだけは言って欲しくなかった。
 それが身勝手な願いだとも十分承知していたけれど、それが、表も裏もない本音なのだ。
 沈黙するゆかりに向かって口を開く。ひどく間の抜けたセリフを。
「誰かに好意を持てばセックスだってする。おかしくない。自然なことだろう。だから、ここへ来たんだ」
 真顔でそう言うと、ゆかりが怒りに身を震わせながらあきれた表情を見せた。
「じゃああなたの言う好意って何? その場限りの恋愛ごっこ? 自分に好意を寄せる人間すべてがそんなことを望んでいるとでも思ってるの? 可哀そうな人ね。飽きたらほいほい乗り換えて、ひとの気持ちをもてあそんでることにすら気づかないなんて」
「そんな言い方はよしてくれ。その場限りで誰かを抱いたことなんて一度もないよ。もてあそぶ気もない。互いに好意を感じたから身体を――」
「やめて!」
 語気を強めてゆかりが叫んだ。ぎゅっと握りこぶしを握り、もう何も聞きたくないと言いたげだった。
「同じことじゃない。気軽に誰かと付き合って別れて、また誰かと付き合って。そんなのが愛だなんて言うの? あなたの今しようとしていることが本当に恋愛だとでも思っているの?」
「じゃあきみは違うと言えるのか!」
 声を荒上げると、びくりとゆかりが震えた。
「何が愛で……何が恋かなんて……分からないんだから仕方ないだろ!」
 立ち上がって彼女の手首を掴んだ。
 ゆかりが口元をわななかせて言った。
「……なんよ、思い通りにならないからって今度は逆ギレ? 子供みたいな人ね。誰かを傷つけても知らんぷりして」
「ああ。きみを傷つけたのなら謝るよ。この通りだ。でも少なくともわたしはいつだって本気で付き合ってきたし、確かに人を傷つけもしたけど、わたしはわたしなりに相手を好きだったし、その気持ちに偽りはない! ……でも!」
 そう言うと、思わずうなだれた。
「……分からないよ。何が正しいかなんて」
 すべて正直な気持ちだった。付き合うきっかけは様々だったが、好きでもない相手とは付き合ったりしなかったし、拒まれれば身体を求めたりもしなかった。けれどこの性分で、結局長続きしないことの方が多かった。それだけのことだ。
 それを恋愛じゃないと言うのなら、じゃあ今までして来たことはなんなのか? いつだって自分なりに誠実であろうと努力もした。
 仕方のないことだったのだ。気持ちが繋がり合うときもあれば、離れることもある。相手が別れたいと言い出せば、一度離れてしまった気持ちをどうして自分のエゴで無理に引き止められようか。
 いらだたしかった。この現状が。
 どうして彼女に分かって貰えないのか。この気持ちを。
 本当はこんなことを言いに来たんじゃない。ただ彼女の支えになりたくてそう思ってこの部屋へ来たのだ。それなのに気がついたらこんなふうに言い争ったりして。――わけが分からなかった。
 彼女の望むものが。
 自分の望むことが。
 こんなにもすれ違っているだなんて、思いもしなかった。
 今となっては何を欲して自分はここへ来たのかも分からなくなっていた。確かに何かを欲していたのだ。彼女のためだとかそんなんじゃなかった。けれど胸の中がもやもやして気持ち悪かった。なんなんだ、これは。
 そう思って彼女を見下ろす。
「ゆかり」
 名を呼び、彼女を見つめる。驚いた彼女がいぶかしげにこちらを見上げた。
「……なによ」
 その顔をまじまじと見つめた。
「ゆかり。本当にきみはわたしを嫌いか?」
「……え?」
「本当に、もう、わたしのことなんてなんとも思っていないのか?」
 彼女の眼を見つめて言った。彼女の瞳が揺れる。答えが欲しかった。明確な答えが。YESとかNOとかで割り切れる答えが。このままもやもやしてるなんて嫌だった。答えが欲しかった。疑念の余地なんてない答えが。だから彼女がこの問にYESと答えればそれで終わり。――いつもそうして来たから。
 突然のことに驚いた彼女が、首を振った。
「何が言いたいの?」
「答えてくれ」
 そう言うと、唇を引き結んで彼女がうなずいた。
「ええ」
 彼女が憐れむようにこちらを見上げていた。
 ――ショックだった。
 当たり前のことなのに、ショックを感じている自分に驚いた。
 今まで誰と別れ話をしてもこれ程悔しい思いをしたことなんてなかった。
 いつも相手からの別れ話を諾々と受け入れてきただけで、引き止めたりだなんてしたことがなかった。喧嘩になればいつだって相手の言い分を受け入れてきたし、別れ話になっても同じように受け入れてきただけだった。いや、それだけの執着がなかったのだ。誰と付き合っても。
 それでもそうするべきだと思っていたのだ。
 今だってこのまま回れ右して出て行くのが正しいことなのだ。だって彼女はもう自分を望んでなんていないんだから。
 それなのに。
 彼女を目の前にして、怒りがこみ上げた。とても回れ右なんてできそうにない。
 彼女が思い通りにならないから? その通りだ。子供じみているかもしれないが、その通りだった。
 けれど何も本当にただわがままで怒ってるんじゃない。
 彼女にこんな表情をさせて、こんなことを言わせている自分が悔しいのだ。
 もどかしかった。
 悔しかった。
 違う。こんなのわたしじゃない。わたしらしくない。こんなの五条御影じゃない。大人しく回れ右? できるわけがないじゃないか。したくないんだから。
 そうだ。目の前に取りのぞかなければならない難題があるなら、取りのぞいて来たじゃないか。調査し、作戦を立案し、遂行した。完璧に。それが軍事訓練科・五条御影なのだ。
「ゆかり。悪いが手紙を出してくれないか?」
 そう言うと彼女が混乱して目を細めた。
「……何? なんのこと?」
「きみが今朝もらった手紙だよ」
 そう言って手を突き出すとようやく合点がいったようだったが、それでも支離滅裂さに二の足を踏んでいたので、御影は実力行使に出ることにした。
 机の上にメガネを置くと、立てかけてあった彼女のカバンを取り上げ、「悪いけど、探すよ」とだけ言って中を探り出した。あちこちごそごそとやっていると、指先に紙の感触がした。
「ちょっと、御影?」
 ゆかりの声を無視してそれを引っ張り出す。案の定、それは今朝見たラブレターだった。カバンを机に放り、手紙に手をかける。次の瞬間、それをびりびりに引き裂いた。
「御影!?」
 手紙だったものの残骸がひらひらと舞った。
「ちょっと、いきなり何するのよ」
「わたしにはこうする権利がある」
「……ええ?」
「きみがわたしを何とも思ってないなんて嘘だ。きみはわたしを好きだと言った。だからわたしにはこの手紙を破る権利がある」
「な、何言ってるのよ。あなたおかしいわよ」
 その通りだ。無茶苦茶だ。
 でも、これが五条御影なのだ。
「今からきみは、わたしのものだ」
 自分勝手で自尊心が高く、子供みたいにわがままで。
「――わたしがきみを好きなんだから」
 そう言うと、ゆかりの頬が染まった。ドアの前に立ち尽くしたまま、みるみる真っ赤になっていく。
「……な、何言って――」
 目を逸らして逃げようとする彼女の手を取り、掴まえた。
「言っただろう。わたしはきみを抱きに来たと」
 そうだ。何を考え込んでいたのだろう。彼女が好きだからセックスがしたかった。答えはいたってシンプルだったのだ。支えてやりたかったとか、そんなのはただの言い訳で、ただ彼女が欲しかった。
 そうだ。自分はゆかりが好きだったのだ。そう合点がいくとなんだかスッキリした。回れ右したくない理由がはっきりと分かって、もう疑念を差し挟む余地なんてなかった。
 そうだ。

 ――ゆかりが好きだ。

 これほど明確な答えなんてあるか。誰が運命の相手かなんて誰にも分らなくて当然だ。――でも。
 それなら自分のこの手で彼女を運命の人にすればいいんだから。
 けれどゆかりが顔を真っ赤にしたままこちらをにらみ上げた。
「何言ってるのよ。ただ、誰でもいいから……そ、そういうことがしたいだけじゃない」
 そう言われて面食らった。
 妙なことを言うと思った。
「何を言ってるんだ。あいにくとわたしは好きでもない相手とセックスしたがるほど、酔狂な人間じゃないよ」
「……嘘よ」
「きみはわたしをどういう人間だと思ってるんだ?」
「だって」
 確かに多くの女の子と身体を交わらせた。でもだからといってケモノか何かみたいに身体だけが欲しかったわけじゃない。
「きみが欲しいんだよ」
 そう言うと真っ赤なゆかりが逃れようとして肩をすくめて抵抗をした。
「や、やめてよ」
「やめない」
「おかしいわよ、あなた」
「おかしくないよ」
「だって、わたしのことが好きだなんて、一度も言わなかったじゃない。……あの時、だって……」
「あの時って?」
「だ、だから……き、キスした、時……」
 真っ赤になってうつむくゆかりを見てはたと思い出した――事件の時のことだ。あの時の彼女もこんなふうに真っ赤になって、可愛かった。
「確かに言わなかったけど、今は好きなんだからそれでいいじゃないか」
「やっぱり、……好きじゃないのにキスしたんじゃない」
 そう言ってすねる彼女が可愛かった。
「でも可愛いと思ったよ」
「じゃあやっぱり可愛いと思えば誰とでも……するんじゃない!」
「キスとセックスじゃ全然違うだろ。可愛いと思っただけでそんなことしないよ!」
「う……嘘よ! わたしのことだってただ面白がってるだけで、本気じゃ……ないのよ。面白がってるだけならやめて」
「違うよ。きみが好きなんだ。きみが好きだからきみがどんな顔してよがるのか見てみたいと思うのがそんなにおかしなことか?」
 そう言うとぎょっとしてゆかりが目を見開いた。そしてとっさに顔をそむける。
「な、なに、何……言って――」
 耳も何もかもが真っ赤で、どうしていいか分からずにいる彼女が可愛かった。彼女の腕を引き寄せ、腰を抱き、逃れられなくさせる。そしてきっぱりと言った。
「好きだ。ゆかり。きみが欲しい」

 誰にでも言ってるくせに。
 そう言いたいのに言葉がでてこない。
 御影が近くて、彼女がどんなに自分勝手で調子のいいことを言っているのか分かってるのに、言えなかった。
「ゆかり」
 名前を呼ばれるだけで、逃げられなくなってしまう。
 忘れようと思ったのに。他の人を好きになろうと思ったのに。どうしてそうさせてくれないのか。
「ゆかり」
「……いや」
「ゆかり」
 名前を呼ばれるだけで、逃げられなくなる。
「……好きだ」
「……ずるいわよ」
「ずるくてもいいよ。それできみが信じてくれるなら」
 そう言われても分からなかった。信じていいはずがないのに、信じたいと思う気持ちもあって。このまま流されていいわけがないのに、このまま都合のいい女になんてなりたくないのに。
「ゆかり」
 抱きしめられるだけで、やっぱり、どうしようもなく好きで。
 こんなひどい人なのに。ずるくて自分勝手でひどい人なのに。
 胸が痛くなる。
 ドクンドクンと心臓がいうたびに胸が苦しくて、やっぱり大好きで。
「本当にきみはわたしが嫌いなのか?」
 抱きしめられたまま耳元で囁かれて、うなずくなんてできなかった。
「……こんなことして……ずるいわ」
「答えろよ」
 そんなふうにどこか自信ありげに言われて、馬鹿みたいだけれど胸がきゅっと締めつけられた。うつむいて、小さくつぶやく。
「……分かってるなら、聞かないでよ」
「聞きたいんだよ、わたしは。きみの口から」
 顎に手を添えられて顔を上向けさせられた。目の前に御影の顔があり、もう十分過ぎるくらい真っ赤なのに、もっと顔が熱くなった。
「言えないわよ」
「言えよ」
「…………」

 好き。

 小さな声でつぶやくと、御影がくすりと笑った。
 ありがとう。
 そう言われて。
 ――口づけられた。

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Waterfall top
Saku Takano ::: Since September 2003